主の種

 というのは、今までのあらゆるものは月の力だったのです。それで救世教が初めて、日の力を現わしたのです。それが今言ったような具合に、はっきり具体的に現われているのです。

 そこで日の光がやっと昇ったばかりですから、これからだんだん天の中心に行くに従って、光が余計増しますから、それに準じてやはり発展もそうなるわけです。

 それで本当に日が出たのは、私の自観叢書にありますが、昭和六年六月十五日に房州の日本寺が始まりですが、あの時は霊界の奥の方、最奥霊界が黎明になったのです。

 今度は、現界の霊界に日が出たのが、一昨々年の、私か庵原警察の留置所の中で、日が出たと言えばおかしいですが、非常に神秘があったのです。

 日が出るという事は、やはり天照大御神様です。これは古事記にもありますが、天照大御神様が御生れになる時には、最初天宇豆売命<あめのうずめ>という女の神様が非常に舞うのです。

 これは岩戸開きですが、それで天照大御神様はその岩の戸を細めに開けて御覧になると、いきなり手力男命<あめのたじからお>が行って手をとって引張るわけです。

 そうすると五伴男(いつとものお)の神様といって、五人の男の神様が守護して世に出られるという事がありますが、これはもちろん寓意ですが、それと同じ型が出たのです。

 あの時に、知っている人もありますが、差入屋の婆さんで五十近い未亡人ですが、舞いが非常に好きで、舞いを習っているのです。そうして前の晩に大勢呼んで舞ったという事を聞いたので、これはいよいよ岩戸開きだなと思ったのです。それで当時引張られた教団の幹部の人が五人ですが、最初は四人だったので、おかしいなと思っていたら、最後に渋井さんが引張られて五人になったのです。

 そこで五伴男命という事は、梅の五弁になるわけです。大本教のお筆先に″三千世界一度に開く梅の花、艮の金神、梅で開いて松で治める神界の世になりだぞよ″というのがありますが、梅というのは非常に重大な意味になっています。

 それで兄の花姫というのは、兄の花と書くのが本当です。木の花咲爺姫(このはなさくやひめ)とは違います。

これは桜で仏界の働きなのです。兄の花というのは、梅が一番先に咲くから兄の花です。あとはみんな弟になります。桜の方は妹、女の方になります。

 そこで梅の花が開いて、散りて実を結ぶというのは、梅の花の実は″王の種″と言ってチョンです。それで、今度の歌にも主の種という事がちょっとありましたが、主の種の花が咲いて、そうして四方に香るという歌が昨日のお祭りの歌の中にありますが、そういうわけです。

 そこであの当時「散花結実」というのを書いてみんなに上げましたが、これはその意味なのです。つまり梅の花が散って、これから実が成る、という意味を歌ったものです。これは非常に神秘な話です。そうしてあの時の手力男命は望月という弁護士です。あれが私を引張り出したのです。

 その時初めて、天照皇大御神様の霊が、私の腹に宿る、という事になります。それが今だんだん大きくなりつつあります。もう余程大きくなって居ます。それで光がだんだん強くもなるし、大きくもなります。その代り浄化も強くなります。しかし別に私かそうするわけではないので、神様がそうするのです。

 そういうようで、力という字は、「チ」は「霊」で、「カラ」は「体」という事を言いますが、「空ッポ」という事です。そこに「チ」「霊」がはいるので、生きた人間というわけです。そこで霊と体が組んで、初めて「力」が出るのです。

 それでスというものは世界です。それで今までの世界というのは空ッポなので、まだ魂がはいっていなかったのです。肝腎な中身がなかったのです。そこでお釈迦さんはうまい事を言いました。″この世は仮の娑婆だ″と言いましたが、確かに仮の娑婆です。本当ではない、一時の間に合わせというわけです。私は『文明の創造』を何時か読んだ事がありますが、″今までは間に合わせだ、本当のものではない″という事を書いておきました。そこでお釈迦さんは″仏教は真如だ″と言った。真如というのは真の如しであって真ではない、仮であって本当ではないというわけです。仏教の方では「実相真如」という事を言いますが、これはあべこべで、「真如実相」が本当です。

 実相とは、本当の魂のはいったものをいいます。それで最初真如が出て、それが済んでから実相になるのです。仏の世が済んでから実相世界、神の世界になるのです。

 そこで大本教のお筆先に″今までは仏の世でありたが、仏力と神力は違うぞよ″というのがあります。それで今までは要するに仏力、月の力です。

 今度は神力、神の力です。それで神というのは、「力」と「ミ」、「火」と「水」ですから、やはり経緯という事になるから、本当の力です。ですからつまり仏力という事は本当の力でなかったのです。それで佛という字が人偏という事は、これは人間の力です。この文字はなかなか分り難いですが、片方の弗という字は弓という字なのです。弓に二本の棒を引いてあるのです。弓という事は月の事です。よく弓張り月という事を言いますが、弓の形が月の形になるのです。ですから弓をしぼると、やはり月と同じような形になります。それから、神という字は、示偏に申としてありますが、これは申ではないのです。やはり○に十で、上下に突き通っているのです。ですから経緯に結んで、これを世界に示すというわけです。神というのは、どこまでも十なのです。バッチの十もその意味なのです。

 〇眼に見えぬ 一つの魂が大自然の 恵みによりて人となるなり

 〇兄の花の 主の種春となりぬれば 花咲き四方に匂ふなるらむ

「御教え集23号」 昭和23年06月16日

御教え集