二月一七日、午前二時、奥津城の建設現場は最後の追い込みで、氷点下の冷え込みにもかかわらず熱気が渦巻いていたが、一方、熱海・碧雲荘では、紅梅、白梅が夜の闇に浮かび、芳香が静かに漂う中、おごそかに柩前祭の儀が執り行なわれた。二代教主を継承したよ志の先達のもと、しめやかに『天津祝詞』が奏上され、式が滞りなく終わると、参列者一同は万感の思いを込めて、柩の中に花を捧げた。やがて柩は一〇人の奉肩者の肩に担われて霊柩車に移され、まだ明けやらぬ町を通って救世会館へ向かったのである。
一方、会館内ではすでに祭典の準備が整えられていた。壇上には等身大の教祖の写真が掲げられ、その両側には文部大臣・安藤正純、農林大臣・河野一郎をはじめ、百を越える花輪が飾られていた。
夜のうちから参集した信者は、昇天祭の始まるころには一万を越え、場外にまであふれていた。その当時、会館内にはまだ椅子が取り付けてなかったので、参列の信者は全員立ったままであったが、それでも立錐の余地もないほどであった。
やがて午前九時、荘重な雅楽の調べとともに式典が始められ、昇天祭の祝詞が奏上されると、その一語一語に、在りし日の教祖が思い出されて、あちこちから忍び泣く声が起こり、しだいに大きくなって、会館内を潮騒のように流れたのであった。
多くの来賓を代表してPL教団教主・御木徳近をはじめ、宗教界、政財界、美術文化界の名士の弔辞、続いて弔電の披露があった。
当時、財団法人・文化財保護委員会・委員長であった高橋誠一郎は、この日教祖の昇天を悼んで、つぎのような弔文寄せている。
「さきに美術保存のため財団法人東明美術保存会を設立してその事業に尽力し、又兼て箱根美術館を運営して文化財の活用に努め文化の高揚に寄与されたことに対し深甚の敬意を表し、更に文化のため貢献されることを期待したのでありましたが、にわかに御逝去の報を聞き痛惜に堪えません。ここに謹んで哀悼の意を表します。」
列席者の弔辞、そして弔電を通して、昇天祭の参列者たちは、単に宗教面ばかりではなく、文化面、芸術面など多方面にわたる教祖の、はば広い足跡を改めて感じ取ったのであった。
弔電の披露が終わると、純白の喪服をまとった二代教主・よ志が玉串奉奠に立った。その姿には教え主であり、夫である教祖を失くした悲しみがあったが、その悲しみを越えて遺業を継承しようとする決意にあふれていた。
午前一一時、柩はふたたび霊柩車に移され、一台の先導車と三〇数台の随行車を連ね、小田原を経由して、一路箱根・強羅へと向かい、到着後はただちに完成したばかりの奥津城において、墓所祭がおごそかに執り行なわれた。
奥津城の中央部には、西南を入口とした横穴が東北に向かって設けられ、柩はそのまま、しずしずと入口からすべるように奥に進められ、円墳の中央部に納められたのである。次いで、親族、教会長、側近奉仕者らがそれぞれスコップに一杯の土を捧げて入口を閉ざした。かくて教祖の肉体は、その頭を艮(東北)、足先を坤(西南)に向けて、永久にこの地に鎮まることとなったのである。