しかし教祖は、経済的に余裕があり余る中で美術品の購入を進めたわけではなかった。美術館の建設をはじめ、箱根、熱海の造営が進捗し、資金は常に不足しがちであった。したがって、いつも先方の言い値で美術品の購入をしたというわけではない。
事実、美術商の中には、教祖が美術には素人であろうと、たかをくくり、いい加減な品を持ち込んで、法外な値を要求する不心得者もあった。しかし、そのような時、教祖は一見して相手の心を見抜き、
「持って帰りなさい。」
と言ってすぐ席を立ってしまうのであった。そして、そのあとで、
「あれは私をなめてかかってきた。」
と、側近の者に笑いながら話すことがよくあった。
しかし、いざ逸品が売りに出た場合には事情はまったく異なった。美術品蒐集には時期が大切で、機を逸すれば、もはや入手不可能を覚悟しなければならない。教祖は教団の資金が不足している時には、ひとまず頭金を払い、残金を分割払いにして、やり繰りをしたこともあった。
重要文化財指定の「湯女図」(江戸初期に描かれた初期肉筆風俗画中の傑作)が入手されたのは、このような資金の不足していた時期であった。交渉にあたった山崎が代金を求めると、
「金はないよ。君の知っている通りだ。」
という返事である。その代わりに、教祖は七〇枚近い手持ちの能衣装を山崎に渡した。山崎がその衣装を「湯女図」の所有者に届けると、主人は不服そうであったが、それから半年ほどして処分したところ、数倍の値で売れて大喜びしたのであった。
昭和二八年(一九五三年)、かねてから念願の尾形光琳の「紅白梅図屏風」(口絵カラー写真参照)購入の下話が持ち上がった時のこと、価格の点で話が難航した。そこで、間に立っていた荻原安之助は、事情を教祖に報告し、
「今、二、三〇〇万円余分にお出しになればお手にはいりますが、お宅様で、二〇〇万や三〇○万多くお出しになりますことはなんでもないと思いますが、奮発してお買いになられてはいかがですか。」
と付け加えた。光琳を心から愛し、日ごろから「紅白梅図屏風」の入手を夢見ていた教祖ではあったが、にわかに凜然として、
「私の教団は、信者の浄財を集めてやっているので、そんな大金を軽く出すわけにはいかない。」と言って、それっきり、その話は打ち切りになってしまった。この話がふたたび持ち上がったのは、それから一年後のことである。荻原が先方にはけっして値引きする意志のないこと、また、いったん人手に渡れば、もはや永久に手にはいる望みのないことを進言した。その時、教祖の胸中にはさまざまな思いがあったであろうが、最終的な決断を下し、
「それならやむを得ないから、持ち主の言っている値で買おう。」
と言って、この世界的名品の入手が決定したのであった。
「紅白梅図屏風」は日本美術を代表する傑作であるが、教祖の手にはいるまでには数奇な運命をたどっている。この屏風は第二次世界大戦が終わるまでは津軽家に所蔵されていたが、戦争中収蔵されていた倉庫に空襲のさい焼夷弾が落ちた。そして、まわりの箱が燃え始め、あわや焼けようとする時、使用人の働きで消し止められ、事なきを得たのであった。
また戦後になって、人手から人手へと渡り、粗末な事務所の片隅に置かれてあったり、バラック建ての倉庫にしまい込まれたりして、いつ間違いが起きても不思議はないという危険な状態が続いた。そうした流転の後に、奇しくも、光琳を愛してやまない教祖の手にはいることとなったのである。
「紅白梅図屏風」の入手は、教祖にとっても、また、神業のうえからいっても、きわめて大きな意味があった。
教祖と琳派の緑はすでに誕生の時に始まっている。すでに見たように酒井抱一と縁続きの酒井雅楽頭の下屋敷が橋場の近くにあり、その縁で、大家の坂倉屋には抱一の絵が伝えられていること、そしてまた、大病のあとの養生をするかたわら、蒔絵の修業に励んだ築地時代、住まいに近い築地本願寺に、同じ抱一の墓があることなど、縁の糸は陰に陽に見え隠れしながら、そのゆかりの深さを物語っている。
琳派の中でも、とりわけ尾形光琳を愛した教祖は、初めて持った店を「光琳堂」と名付けた。
その後も、実業時代を通じて多くの商品を開発しデザインした教祖の胸中には、常に変わることなく、光琳への愛着があった。それをもっとも明らかに伝えるのが、前にも触れた、明治四0年(一九〇七年)茨城県の五浦に岡倉天心をたずねたおりの、夜を徹しての語らいである。
戦後、聖地の造営が本格的に始められると、箱根の苔庭や観山亭前、熱海の梅園やつつじ山など各所に、琳派の美を造型の世界に生かした庭園が次々に誕生していった。
このように教祖の一生は尾形光琳を中心とする琳派との深い緑を保ちながら営まれてきたものであり、芸術への情熱が一貫して息づいているのである。
したがって尾形光琳の代表作といわれ、日本美術の最高傑作として名声の高い「紅白梅図屏風」の入手は、天国は実の世界であると説いた教祖の一生の歩みのうえで、また理想世界建設を意図する神業のうえで、きわめて大きな意味をもっているのである。
「紅白梅図屏風」が熱海の碧雲荘に届けられたのは、昭和二九年(一九五四年)二月四日、奇しくも立春の日の早朝のことである。立春は、ものみな目覚めて活動を始める日であり、神の力がいや増す喜ばしい日である。教祖はすぐ、屏風を居間に広げさせた。そして、いかにもうれしそうに、眺めても眺めても眺め飽きないという様子で、夕刻まで何度も何度も見入っていたのである。この日の立春祭の講話の冒頭、教祖はつぎのように語っている。
「今日素晴しい事があったのです。いずれ話をします<*>が、それは神様の型です。それで、非常に目出度い事なのです。」
この教祖の言葉は、「紅白梅図屏風」入手のことであって、この名品が立春のよき日に入手されたことを大きな慶事であるとして、そこに後々の神業進展の証しを見出したのである。
*「紅白梅図屏風」が国宝に指定されていたため、文化財保護法の規定によって、必要な手続きが完了するまでは入手の事実を公けにできなかった
教祖の美術品蒐集で、美術商が一様に認めているのは、入手にさいしてのその決断の早さと選択の的確さである。
ある時、東京で展覧会を見ての帰り道、京橋の繭山の店・龍泉堂に立ち寄ったことがあった。あらかじめ用意してあった中国陶磁器の中から、五、六点を選んで買い上げたのであるが、その間わずか数分という早さであった。
また関西巡教の途次、海北友松筆<*>の「楼閣山水図屏風<**>」や雲谷等顔筆<***>の「花見鷹狩図屏風」<****>など数点の犀風を入手した時にも、わずかな時間のうちに購入を決めたのである。なお、「楼閣山水図」は当時すでに重要文化財に指定されていたが、「花見鷹狩図犀風」はまだその指定を受けていなかった。
* 桃山時代の画家。武士出身の豪放な気風を反映して、気骨ある作画を特徴とする
** 楼閣や山水を水墨で描いた屏風。重要文化財
*** 桃山時代の画家。雪舟の画風を慕い、一流を起こし、雪舟の遺址・雲谷庵(山口県山口市)を継承した山
**** 慶長期(一五九六年~一六一五年)に描かれた初期風俗画の一つ。重要文化財
教祖のこのような卓抜した鑑識眼は、天与の鋭敏な美的感性が、徹底した学びによって磨きぬかれた賜物である。それは、単なる審美眼というよりは、宗教的な感性と相まって、たぐい稀な霊感というべきものであろう。すなわち教祖は、一つの美術品を見るや否や、その作品の美術的価値や作者が美術品にかけた思いなどを、ほとんど一瞬のうちに魂の奥底で感じ取ったに違いないのである。教祖の美術品蒐集は、それに要した期間の短さと、集められた美術品の質のみごとさにおいて、美術界でもきわめて高い評価を受けているが、これを可能にしたものは、教祖の美にかける情熱と、絶えざる努力によって養われた審美眼と、神より授かった霊感にほかならないのである。