終戦

 戦局はいよいよ激しさを増し、昭和二〇年(一九四五年)二月、アメリカ軍は硫黄島に上陸を開始し、一か月の死闘の後、ついにこの島を占領した。

 一方、ヨーロッパ戦線においても、すでに昭和一八年(一九四三年)九月には、イタリアが連合軍に無条件降伏をした。孤立したドイツは、昭和一九年(一九四四年)になると後退に後退を続け、もはや日独伊の枢軸国側の命運は風前の灯であった。

 硫黄島の占領後、アメリカ軍の進攻はいよいよ激しく、わずか半月後の四月一日、今度は沖縄本島の上陸作戟が始まった。兵士のみならず多数の民間人を巻き込んだ沖縄戦は、三か月近い間に戦死者の数はじつにニ一万、うち非戦闘員一〇万という壮絶な戦いであった。

 その前年の昭和一九年(一九四四年)ごろから、無防備と化した日本に対する空襲が激しくなったが、とくに沖縄占領後は大都市や軍事施設のみでなく、全国の中小都市まで無差別の爆撃を始めた。五月にはドイツ軍が全面降伏したこともあって、連合軍は、いまや総力をあげて日本攻撃にかかった。七月のなかばになると、釜石、室など海岸部の都市は海上から艦砲射撃を受け、壊滅的な打撃を被った。しかし、このような事態に立ちいたってもなお、時の内閣は本土決戦の準備を進めていたのである。

 だが、八月の六日、広島に、そして三日後の九日には長崎に、原子爆弾が続けて投下されるという歴史的な悲劇を迎えた。ここにいたって天皇の決断により政府は降伏を決定し、四年近くに及ぶ戦争に終止符が打たれたのであった。

 昭和二〇年(一九四五年)八月一五日、箱根の神山荘には、面会のために全国から訪れた五〇人ほどの信者が集まっていた。この日は朝から、ラジオで、
 「正午に重大ニュースがある。」と繰り返し放送があり、教祖から、この重大放送を聞くようにとの指示が下<くだ>っていた。

 やがて教祖は威儀を正して着座、一同もラジオの前に坐った。定刻の正午、ラジオから流れ出てきたのは、日本始まって以来初の、天皇みずからによる終戦宣言の放送であった。

 一同の中には、かねて教祖から日本の敗戦を知らされていた者もあったとはいえ、国力のすべてを傾け尽くした末の敗北に、多くの者は、さすがに息をのんで茫然としたのであった。放送が終わってしばらく沈黙が続いたあと、固唾<かたず>をのんで見守る信者たちに、教祖は、 
「これでいいのだ。日本はよくなる。」
と、それだけを言うと席を立った。沈痛な思いに満たされた幹部、信者の耳には、ふだんと変わらない調子で語ったその言葉が、強い印象となって残ったのである。

 教祖は、またその翌日、面会に訪れた信者に、
 「大きな声では言えないが、この結果は本当からいえば大いに祝わなくてはならない。」
と述べている。こうした教祖の言葉を聞いて弟子たちは、終戦によって日本が本当の正しい国になる時期がいよいよ到来したという思いに、複雑に去来した心中の不安が少しずつぬぐわれていくのを感じとったのである。

 しかし、それにもまして、官憲の絶えざる監視に神経をとがらせる日々が終わり、長い間、胸中深く秘めてきた神への信仰を高らかに世に訴えていくことのできる時代を迎えた今、教祖の決意はどれほどのものであったであろうか。

 終戦とともに監視を解かれ、活動を再開した教祖のもとへは数多くの人々が訪れるようになった。その中には、かつての職業軍人(徴兵によって軍役に服するのでなく、みずから一生の仕事として軍人の道を選んだ者)も多くいた。

 終戦後の間もないころのことであった。軍人であった一人の男が教祖をたずね、憤懣の思いをぶつけた。
 「今度の降伏はどう考えてもわからない。じつにけしからん。」
と言って、しきりに憤慨するのである。しかし、教祖がいっこうに取り合わないので、ついに気色ばんで、
 「先生は日本人ですか。」
と尋ねた。そこで教祖は即座に、
 「私は日本人じゃない。」
と答えた。すると、男はギョッとして震え始め、
 「ではどこの国の人間ですか。」
と、なおも問うので、教祖は、
 「つまり世界人なんですよ。」
と言ったのである。そして拍子抜けしたような顔をしている男に、日本一国の立場を越えた、人類愛の思想を説いたのであった。

 日本の戦後は連合国占領軍の日本進駐に始まった。昭和二〇年(一九四五年)八月一五日のポツダム宣言の受諾によって発効した降伏とともに、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。代わって東久邇宮稔彦が後継内閣を率<ひき>い、敗戦の事後処理と社会の混乱の収拾にあたったが、実際はすべてが連合軍のG・H・Q(占領軍総司令部)の指揮下にあった。こうした状況は昭和二七年(一九五二年)四月、アメリカ合衆国など四八か国との間に締結したサンフランシスコ講和条約の発効によって、日本が独立するまでの約七年間続いたのである。

 占領軍の政策は、武装を解除し、軍国主義の体制を清算して、日本を平和国家に導くとともに、個人の自由と民主主義を確立し、世界平和に寄与しうる経済活動を再建することにあった。
詳しく検討すれば、戦争犯罪人の裁判が勝者による敗者への懲罰という実態であったり、言論の自由といっても、連合軍側に不利な報道は厳しく統制されるということはあった。しかし、ともあれ、大幅な自由と民主主義の実現をめざす政策がとられて、宗教においても公序・良俗<*>に反しない限りは束縛されないという自由がまがりなりにも保証された。したがってそれは宗教界に訪れた初めての春であったといえるであろう。
 *国家社会の秩序や善良な風俗といった、社会の普遍的道徳観のこと戦前、戦中を通じて宗教界は手ひどい弾圧、干渉を受けたが、その法的根拠となったのは、大正一四年(一九二五年)に制定された「治安維持法」である。これによって大本や人の道教団が大打撃を受けたことはすでに触れた通りである。

 しかし終戦を迎え、G・H・Qによる間接統治の時代にはいると、宗教関係者で獄中にあった人々はすべて解放された。そして政治と宗教、国家と宗教を切り離す政教分離の政策が推し進められたのである。この政策に基づき、戦前の「宗教団体法」に代わって、昭和二〇年(一九四五年)一二月に施行されたのが「宗教法人令」である。これは信仰の内容に関してはいっさい問うことなく、公的な権力が介入するようなことがあってはならないとされ、届け出があれば宗教法人としてこれを認めるというものである。この法令によって宗教に対する国家の不当な干渉は全面的に排除された。一例をあげれば、この法令の結果、戦時中厳しい弾圧を受けた大本は終戦の翌二一年(一九四六年)二月、「愛善苑」として、また、それと前後して人の道教団は「PL教団」として、それぞれ再発足をした。まさに信教の自由の時代を迎え、新しい宗教が次々と生まれたのである。「踊る宗教」として世に知られた天照皇大神宮教の北村サヨは、終戦の年の七月から説法を始め、また、元横綱の双葉山や、天才棋士の呉清源までが信者になったことで有名な璽光尊(じこうそん)の璽字<じう>教が世間の注目を浴びたのも昭和二二年(一九四七年)一月のことであった。

 宗教法人令が施行されることによって、それまで世を忍び、仮の姿をとって布数活動をする ほかに方法のなかった宗教はそうした暗い時代に終止符が打たれたのであった。

 本教も宗教活動を禁止された逆境の時代が終わり、大きな歴史の転換点を迎えたのである。
それについてつぎのような象徴的な話が伝えられている。

 昭和二〇年(一九四五年)九月、終戦の翌月のこと、一人の布教師が箱根へ献上品を持って行ったまま気分が悪くなり、倒れてしまった。人の知らせで浄霊を取り次いだ教祖は、本人の気分が回復すると坐り直し、威儀を正して朗々と天津祝詞<あまつのりと>を上げた。

 まわりに居合わせた信者たちは、戦前から戦中にかけて、民間治療の時代に神縁を結ばれた者がほとんどであったので、初めて聞く天津祝詞に驚くとともに、その荘厳さにもったいない気持ちでいっぱいになり、立っていた者も腰を落として坐り込んでしまった。

 こうして宗教としての働きを明確にしていく歩みが、一歩一歩踏み出されていくのであるが、宗教法人の組織体制を整える機が熟すまで、教祖はなお二年の間、時を待ったのであった。

 すなわち、昭和二二年(一九四七年)、新憲法の制定によって信教の自由が名実ともに確立されるまでの約二年間は、教祖は引き続き、民間療法という形で、救世の活動を続けたのである。

 戦時中の限られた自由の中で、根強く広げられていった教線は、終戦を契機<けい機>に、出口を見出した流水のように、目覚ましい勢いでほとばしり出て、日本全国に広がった。浄霊は、耐乏生活の中で、病に、貧しさに、そして争いに呻吟する人々を救い、その教えは生きる方向を見失った人々に歩むべき道を照らす灯火となったのである。

 やがて教祖は、昭和二二年(一九四七年)二月一一日、各弟子たちがその姓を冠し、○○式指圧療法という名称で行なっていた体制を改めて、「日本浄化療法普及会」を結成して組織の一本化を図った。教祖みずから会長に就任し、渋井総斎が副会長となり、その事務所は熱海に置かれることになった。

 そのころの「日本浄化療法普及会」の発展は著しいものがあった。奇蹟に次ぐ奇蹟の連続で、入会を希望する人々が急増した。全国各地で講習会が開かれたが、どこの講習会も、浄霊を受けて救われた人やその縁者、また噂を伝え聞いてやって来た人などが数多く集まり、会場はいつもいっぱいであった。

 岐阜県のある講習会では一村あげて入信したということもあった。そういう人々の中には、みずからが救われたことの感動的な体験から、神の僕としての使命に目覚め、専業の治療師を志す人々もふえてきた。だが、普及会の急速な発展を快く思わぬ者が一部にあり、医師法違反などの容疑があるとして、警察当局に投書を寄せることもあり、ときとしてそれが新聞種になることもあった。そのようなことから当局も見過ごすことができなくなり、治療師を勾留して取り調べるという事件も、何回か起こったのであった。

 しかし、そうした妨害<ぼうがい>も、指導者たちのあつい信仰で乗り越えることができかえって逆に、これらの一連の事件が人々の関心を引くよい材料になるなど、教線は目覚ましい発展を続けたのである。