總斎の行なう浄霊の力は比肩すべき者がいなかった。これについては總斎の浄霊を受けた者の話を聞くしかない。
人は總斎の行なう浄霊を受けた時は、電撃を受けたように感じるという。明主様の浄霊のほかには總斎の行なう浄霊のような力強さは、本当に体験したものでないと判らないという。それは体がブルブル震えるぐらい、あるいは電気が身体中を突き抜けて行く感じで、体験者の感想は、びっくりしたという一語に尽きる。 当時まだそれほど一般的ではなかった集団に対する浄霊(この頃は一桝浄霊と称していた)でも總斎の浄霊の力は、遺憾なく発揮されている。
終戦直後に京都の下京区河原町七条内浜に「五六七会」の関西における拠点があった。ここは總斎が関西で布教するおり宿泊所としていたところである。總斎はここで、多くの人びとを指導をしていた。總斎の滞在時は、内浜に詰めていた専従者はいつも忙しそうであった。それは、總斎の取り次ぐ浄霊をもとめて普段よりもずっと多くの人びとが訪れるからである。この多数の患者に浄霊を施すために、總斎はここで集団浄霊を行なっていた。この集団浄霊を今もあざやかに思い出す当時の信徒も多い。
總斎の集団浄霊の仕方は、まず患者が一列縦に十名ほど横へ五列ないし六列並んでいるところへ正面から浄霊を取り次ぐ。そして次に總斎自ら列の中を歩いて入って一人ひとりを浄霊するという。人によっては前から、あるいは側面から、あるいは背後からと浄霊を受ける角度は微妙に違っている。これは集団とはいえ、それぞれの人に対して個別に浄霊を行なうという總斎の方法である。この時、浄霊を受けた信徒は熱風が吹き抜けるような感じを受けたという。従来一対一で浄霊を受けていたのと同様、いやそれ以上の素晴らしい力で、五、六十名に対し一度に同じ体験を与えたのである。總斎の浄霊の偉大さにいまさらながら驚いたという信徒は多い。
この集団浄霊が總斎との最初の出会いだったという元光明教会丸岡支部長の田畑?治(千童)は、その著『浄霊曼陀羅』で總斎の浄霊の力強さを次のように伝えている。
「君は幸運だなあ……、今度はあの先生のもうひとつランクが上の渋井先生がお見えになって、中部地区の専従者に特別浄霊を授けることになったんだ。またとないチャンスだから君のことも代わりにお願いしてあげるよ。浄霊のお礼はこれぐらいさせていただいたらどうだろう。お願いしといてあげるからね」
と、誘ってくれた人は一方的に言い、さらにつけ加えて、かいつまんでの渋井先生の人物紹介や、先生の浄霊の素晴らしさを吹聴した。
その人によると、トンネル掘りに例えれば、普段私たちが交換している浄霊はつるはしぐらいの力で、渋井先生の浄霊は掘鑿機<くっさくき>で穴をあけるみたいなものだという。一度受けておくと、普段の鶴嘴の作業がより効果的なんだそうである。分かったような分からないような、煙に巻かれたような曖昧な説明を聞きながら、“それにしても高くつくなあ……”という思いがふと目の前をかすめて通った。
いよいよ当日の朝、玄関にはすでに人びとが列をなして受付の順番を待っている。私がこの列に並んで初めて気づき、慌てたのは、浄霊のお礼しか用意して来なかったのに、ほかに玉串料も必要ということが分かったからである。結局財布の底をはたいて、どうにか都合をつけることができたのだが、それはそれは冷汗ものだった。
二階の十畳二間続きくらいの会場は人で溢れていた。新米の私にとってはその誰もが立派に見えて、ことに私といくつも年の違わない、見るからに明るい好青年たちが手慣れた様子で動き回るのを見ると、これがみな私の先輩なのかと身の縮む思いと同時に、胸の高鳴るのを覚えずにはいられなかった。それでも、要領よく最前列に座を占めることができた。会場いっぱいに縦横きれいに整列したまま、どれほど待たされただろうか。
「あとしばらくお待ち下さい」
と言う係りの案内があって、その“あとしばらく”が何回か繰り返された。私の先生の、そのまた上の先生が現れたのは、みなが相当にしびれを切らした頃だった。でっぷりした体躯を派手な格子柄の背広に包んで、いかにもゆったりとした雰囲気で、笑顔の中の細い目が優しく、そして鋭い眼光が印象的な先生の出現は、一度に部屋の中を明るくした。係りの者が本日の趣旨を述べ、そのあと、軽くつけ足して、玉串料と浄霊のお礼とを用意させていただいた旨を報告した。すると、「ハハ……、二段重ねで縁起がいいね、ハハハ……、こちらは三段重ねでもいいんだがね。ハハハハ……」
と、実に屈託のない笑いを響かせる。会場の中からも「アハハ……」と哄笑<こうしよう>が起こったが、私は笑うどころではなかった。
おしぼりにちょっと手を触れて、いよいよ集団浄霊が始まった。初めて見るその先生の浄霊のやり方は、まるでボールでも投げるように肘から曲げた腕を大きく調子をつけて振るものであった。そしてその調子に合わせるように、斜め後方に控えた若い女性が大きな渋団扇を両手に掴んで扇ぐのである。その珍しい光景をチラッと盗み見て、あわてて下を向いてかしこまった。その頃は、浄霊は身体の正面、左側面、背面、右側面という順に、立ったままの姿勢で合図に従ってぐるりと回転しながらしていただくのである。前列に位置していた私は、ひとりでに視野に映ってくる左右の人の足の爪先をとらえながら、無意識のうちに横に何人ぐらい並んでいるのかを数え始めた。むろん、どんなに無理をしても端の方まで数えられるわけはないから、大方の見当をつけるだけだが、横が終わったら今度は縦を数える。とはいっても、背後の数を読みとるのは困難なので想像に頼るしかないが、横の数と縦の数を掛け算すれば一応は会場に集まった人数が出る。それに玉串料と浄霊のお礼を加算したものを掛け算すれば本日の総収入が出てくることになり、私の頭の中では、一体この先生の浄霊はひと振り幾らになるんだろうという計算が着々と進められたわけである。
その計算の答えができない前だった。ちょうど先生の浄霊の方向が私の列にさしかかったのだろうか、それこそ突然、私は強い風圧のような衝撃を身体に受けて、足がよろめき、思わず半歩を踏み出した。ハッと気を取り直して、いくらか身構え気味の姿勢をとりましたが、確かに、先生の手を振る調子に乗って私の身体がかすかに揺らぐではないか。先生との距離は二メートルぐらいはある。若い女性の送る大団扇の風は先生に向けられていて、私の方に影響があるはずはない。息を呑むと同時に冷や汗がドッと吹き出してきた。その衝撃はしばらく続いて、やがて消えた。
その時の浄霊がどれほどの掘鑿<くつさく>機械としての威力を発揮したのかは判らないが、少なくとも、出掛けに浮かんだ“高くつくなあ”という思いや“一振りいくら”という発想を打ち砕き、未だ体験した事のない「見えない世界の力」を若僧の小さな人生体験で推測しようとすることの愚かさを、思い知らされたのである。
總斎のひと回りも大きな人間性と、それに見合った強い浄霊の力を持った總斎を、初めて垣間見た者の驚きを伝えて興味深い話である。現在相談役の勝野政久も集団浄霊を同様に体験した一人である。