少年期の思い出

 明治三二年(一八九九年)の四月、一家は日本橋浪花町へと引っ越し、初めて浅草を離れた。

 教祖が人間形成の基礎となる幼少年時代を過ごした浅草一帯は、東京の中でもいわゆる下町といわれる地域である。同じ下町でも、神甲京橋、日本橋など、徳川将軍のお膝元〈ひざもと〉の町々は、江戸っ子の気風〈きっぷ〉の良さで鳴り響いたが、浅草は、この気風の良さのうえに思いやりあふれる庶民のもつ人情の厚さがあった。大名の下屋敷〈しもやしき〉があり、職人や商売人も住めば、農家もある。そのうえ、多くの寺社があり、花街〈はなまち〉にも近い。こうした浅草は、雑多な人間の住む町である。子供たちは貧富の隔〈へだ〉たりを越えて仲良く遊び、大人は大人で、なんのこだわりや気がねなしに付き合う。困った時には互いに助けあいながら暮しをたてるといった、分け隔てのない交際が、至極〈しごく〉あたりまえのように行なわれていた所、それが浅草であった。教祖はこのような土地に生をうけ、物心〈ものごころ〉ついて成長し、この地縁〈ちえん〉が培〈つちか〉っていたものから多くを身に受け、自分のものとしたのである。