書画による救い

 昭和四、五年(一九二九、三〇年)ごろから教祖は、信者から請われるままに、書や絵の筆を執るようになった。当時中心となったものは観音像で、その大きさも色紙から大幅のものまでいろいろあり、神体やお守り、あるいは「おひねり*」として信者に与えていた。
 観音像のほか、天照大御神、釈迦、達磨なども画題になり、ときには山水、雪月花などを着彩で描くこともあった。

 *和紙の小片に、教祖が絵や文字を書き、それを折たたんで、丸薬のように服用した

 教祖がこれらの画筆を揮ったのは、夜間の一時であった。そのころは後の時代に比べて訪れる人も少なく、書画のほかに短歌を詠むなど、大森の生活は経済的な逼迫にもかかわらず芸術に触れる機会の多いものであった。もちろん教祖は、単なる楽しみのために芸術にいそしんだのではなかった。書画の揮毫も、絵や文字による救いをその本願とするものであった。救いの働きを担う観音像が揮毫の中心となったのも、そうした理由からである。

 ことに、昭和六年(一九三一年)六月の天啓を受けてからは、浄霊とともに、画筆による活動も、教祖にとって重要な神業の一つになった。そして大・中・小の画箋紙に本格的に描画するようになったのである。
 このころの『日記』には、毎日浄霊を施した人、来訪した人の氏名が記録され、そのほかは観音像を描くために絵筆を執った記録が多い。昭和六年(一九三一年)六月二一日に、
 
 珍しく今日の日曜閑散に観音尺三*の幅を描けり
  *横幅〈一尺三寸(約四〇センチメートル)の紙

 七月二九日には

  夜さりて観音画像を八枚の色紙にとりどり描きけるかな
 
 八月二八日の条には、

  半折や色紙へ観音数枚を黄昏頃より描きけるかな

 さらに、一〇月一三日には、

  暴雨にて鎮魂少なく観音の大画像をば描きけるかな
とある。

 右の『日記』の中にも見られるように、このころは信者に下付する観音像の描画ばかりでなく、教祖の胸には、やがて新しい宗教の創成に備えてか、本部の神体とするため、大作の観音像にも絵筆を執っていたことがわかる。巻頭の口絵カラー写真に掲載した大弥勤像はその当時貴揮毫したものである。このころ教祖は後の「自観」という落款(書画に筆者が署名、または雅号の印をおすこと)とは異なり、「暉月」を使用している。暉月とは日月を意味し、観音の働きを象徴する雅号であるが、昭和九年(一九三四年)に大本から離れるまでこの号を使っていた。また、昭和六年(一九三一年)からは「自観」の号も用いるようになった。そのほか、神体として描く観音像ばかりでなく、お守りとして描く観音像もあった。

 教祖の描いた観音像には、いろいろな不思議な逸話が報告されている。画像から光が放射するのを見た人はたくさんいるが、そのほか観音像が笑ったり、目をまたたいたり、絵から抜け出して数メートル歩いたりするのを拝した人もあった。また、二階に奉斎した画像から発する光明は階下まで漲〈みなぎ〉り、美しい五色の雲がたなびいて、観音像をお祀りした家庭が天国のようになることをはっきり見たという奇蹟もよくあったという。また、埼玉県大宮支部では、呉服屋の娘・静が産後のノイローゼで苦しんでいたが、観音像を奉斎すると三日で全治した。神前に額づくと、床の間の観音像が絵から抜けてこの痛人のそばへ寄って、いろいろと教示をし、その導きによって初めて本心を取り戻すことができたのであった。

 教祖の観音像は顔の部分ができあがると、そこが際立って白く変わることがあった。大森・松風荘時代、教祖宅へ出入りの表具屋が自宅で仕事をしていた時、たずねてきた同業者が観音像に見入って、「このお顔には胡粉が塗ってあるのだろう。」と言いはった。そして、指でこすってみて不思議がったという。奇蹟はこればかりではなかった。

 昭和六年(一九三一年)八月一二日の『日記』に、

 自動車の守りの観音十一体今宵初めて描きけるかな

と記録されているが、当時、東京市電気局の自動車課から大量の自動車のお守りの注文が教祖にあった。乗合自動車がようやく大衆のものになってきた時代のことで、交通事故を防ぐ意味から教祖はお守りの注文を快く引き受けたのである。

 さっそく出入りの職人に命じ、縦長の薄い板金の中央を丸く打ち抜き、そこへ、和紙に描いた観音像を貼って自動車用のお守りを作製したのである。
 九月三〇日の『日記』に、

 市電より自動車守りの注文に徹夜をなして謹製なしけり

 また一〇月二日には、自動車のお守市電へ三十体今日納めしむる事となりけりとある。
 教祖はできあがった三〇体のお守りを、新宿にあった営業所に届けさせ、バスの運転台の前方に一体ずつ掛けてもらって、事故率を見届けることとした。その衝にあたっていた清水清太郎によれば、お守りを掛けてから事故の発生はまったく無くなったという自動車課からの話があったと伝えられている。

 その後にも申し込みがあったのであろう。昭和七年(一九三二年)の五月一九日の『日記』にも、つぎの歌が記されている。

 市電バスに附くべき事故よけ遅くまで四五人かゝりて作りけるかな

 すでに述べたようにこのころ教祖は人々の願うままに、おひねりを作って与えていた。

 昭和六年(一九三一年)五月の『日記』には、

 真柄、松久、篠崎相手に観音を三体描きおひねり作りぬ

とある。そのころ大本においてもまたおひねりが作られていたが、教祖はこれとは別にみずからおひねりの揮毫をしたのである。初めは観音像を描いたが、後には平仮名で「ひかり」、最後には漢字で「光」と書くようになった。このおひねりによって、病気が癒〈いや〉され、大きなお蔭を受ける信者が多く、ぜひとも下付してほしいという要請〈ようせい〉が教祖の所へきていたのである。

 このように教祖は、立教前数年にして、すでに浄霊とともに、書画による救いを展開していったのであった。