明治中ごろの小学生の服装は、もちろん今のような洋服ではなく、縞の着物に紫紺色をしたメリンスの兵児帯を締め、紺の前掛けをしていた。履物は、靴の代わりに下駄や板草履であった。学校の運動会の時でさえ、草鞋か足袋裸足で走ったという。運動会はといえば、名門校といわれも浅草小学校でさえ、運動場が狭いので、上野公園の広場を会場にしたとさえ伝えられている。
テレビもラジオもないころのことゆえ、子供たちは学校から帰ると、なにがしかの小遣いを手にして、近所の駄菓子屋へ駆けつけ、いわゆる一文菓子などを買って食べながら遊ぶ毎日であった。店にはせんべい、芋ようかん、あんこ玉、ねじん棒、鉄砲玉など、一つ一厘か二厘の駄菓子から、一本二銭のラムネなどが並べてあり、また、メンコや独楽〈こま〉、竹とんぼ、凧など、安いおもちゃも置いてあって、こういう駄菓子屋は、子供たちの集会所といった存在であった。浅草っ子の古老は言う。
「メンコ遊びは、そのころ下町の流行で、勉強なんかそっちのけ、日の暮れるまでよく遊んだもんでした。それから、石けりとかゴミ隠しなんかも夢中でやったもんです。蝋石〈ろうせき〉で地面に線を引いたり、棒切れで土を掘ったりすることに、子供は無上の喜びを感じるんですね。コンクリートばかりで、土に親しむことのできない今の子供は気の毒ですよ。」
教祖の生家の門口を出て、狭い路地を歩くと、その先に大家の坂倉家があり、表通りに行きあたる。通りの向こうは、かつての有馬の大名屋敷で、その裏手はもう隅田川である。近くには坂倉屋の当主・紋三郎の名をとった紋三河岸と呼ばれる荷揚場があり、子供たちの格好の遊び場になっていた。
また、橋場の近辺にはお寺が多かった。教祖の家にほど近い今戸の長昌寺などは境内が広く、界隈の腕白連がその中をわがもの顔に走り回り、日が暮れるまで賑やかな子供たちの遊び声が絶えなかった。病弱であった教祖は、近所の子供たちが誘っても一緒に遊ばうとはせず、近くの不動の社の廂の陰で、本を読んだり、絵を描くことが多かった。それだけに、元気な子供が走り回ったりする様を、どんなにか〝羨ましい思い〟で眺めやったことであろう。