そうこうするうちに、よい出物の話が二つはいってきた。初めの一軒は心にかなわず、それではと案内された二軒目の家は、戦前、財界の重鎮、藤山雷太が建てた強羅の別荘である。強羅は、教祖がとりわけ愛し、大正末期のころ、貸し別荘に一夏を過ごしたことのある所である。
さっそく行ってみると、戦時中のこととて手入れは行き届かず、庭は荒れはてていたが、自然の岩組を利用して建てられた一段高い部屋の縁先から、木立ち越しに〝大文字焼き″で知られる明星ケ岳をのぞむ眺めは、いかにも箱根らしい、穏やかで、しかも奥行きの深いものであった。そのうえ不思議なことに、この地はかつて逗留した貸し別荘からの目睫の間にあった。教祖はここが非常に気に入り、さっそく係の者に購入の交渉を指示した。その建物について、
「この家屋は大分古いが、まことに申分がなく、土地は六百余坪(約二〇〇〇平方メートル)<*>、家屋は百坪(三三〇平方メートル)<*>位、入口は巽<たつみ**>にあたり自然石の階段を十数間(約二○メートル)<*>上りつめ、玄関に上るや、三段の階段あり、それを上り広い廊下を屈折すると、突当りに又八段の階段があり、それを登ると座敷は、御神前に相応しい広間である。
神山荘、強羅公園付近略図
四方の眺望<ちようぼう>は実に風光明媚なる事、箱根随一であらう。 」
*( )内は編集者・挿入
**東南
と説明をしている。また玄関から階段を登ると、左に日本間、右にさらに階段を登って洋間があるが、これについて、
「これは鶴翼の形と言って最もいいのである。しかも、洋間のつくりは船の形になってをり之も波を切って進むといふ意味で、何から何まで理想的である。特筆すべきは、家全体が岩の上に建ってゐて、祝詞にある下津磐根に宮柱太しき建てといふのは之であらう。全く神の家として相応しく、前から神様が用意されたものである事は、よく判るのである。」
と書いている。
苔ふりし庭の大石ながめつつ神代を偲ぶわが庵の外
芦ノ湖畔にある箱根神社は、由緒も古く、鎌倉時代、代々の将軍が参拝して以来、武家の崇敬を集めた社であり、箱根町には江戸時代に関所が設けられ、宿場町として栄えてきた。これに対して、強羅が一般に観光地として知られるようになったのはわりあいに新しく、明治になってからである。
この強羅一帯は、もともとは岩石のごろごろと露出した雑木林であったので、「ごうら」とか、「ごうろ」という地名が付いたという説もある。時代は下って明治の末、箱根登山鉄道珠式会社が設立され、強羅の開発を進めるとともに、湯本・強羅間に鉄道を敷設した。これは大正八年(一九一九年)に開通し、さらに強羅、早雲山間のケーブルカーが、昭和一〇年(一九三五年)に完成してから、別荘地として広く知られるようになった。
この強羅へ昭和一九年(一九四四年)五月五日に転居した教祖は箱根の最高峰・神山にちなんで、新居を神山荘と名付けた。神山は昔から「神の住む山」といわれ、山岳信仰の霊地として、平安時代から人々の信仰の厚い山である。
また神山に隣接する冠ケ岳には、修験道の祖と言われる「役行者」<*>と、「信行者」と呼ばれた修験者を祀る神変寺がある。信行者は下野の国の芳賀の里(現在の栃木県芳賀郡、及び真岡市)の武士の出で、伊豆大島の三原山で修行中、役行者から、箱根の山を開くようにという霊示を受け、明治の一二、三年(一八七九、八〇年)ごろ箱根の宮城野を訪れた。そして修行の結果、身に付けた力によって人々の病を癒し、また深山幽谷に道を開くなどして、村人の尊崇を集めた。そして数年後の明治一八年(一八八五年)、冠ケ岳に登り、座したまま断食して命を断ったのである。
*奈良時代の初期、大和の葛城山にいた呪術者。『続日本紀」には、世を惑わす悪いうわさを流し、伊豆に流れたと記されている。『日本霊異記』、『今昔語』などにも登場する。平安時代に、仏教の一派である密教が盛んになるにつれて神聖化され、修験道の祖とされるようになった
行者は生前、村人にさまざまな予言を残した。一つは、近い将来、便利な乗り物によって箱根の山に登れるようになり、観光地として栄えるようになるであろうこと、そして今一つは、百年を経ずして、超宗派的神殿と世界万民の慰霊塔が建立されるというものである。この言葉を裏書きするように、箱根には登山鉄道が通い、ケーブルカーが敷かれて、その結果、世界的な観光地として開けていった。しかも強羅には教祖が聖地造営を進め、さらに、その遺志を受けて、昭和三三年(一九五八年)に慰霊の場としての祖霊舎が設けられ、昭和四六年(一九七一年)には根本霊地として光明神殿が建設されたのである。なお、現在、光明神殿に向かって左わきの林の中に、信行者にちなむ砕が残っていることも、右の予言と考え合わせて意義ぶかい事実である。
教祖は後に、強羅の名前と地形について、
「本数の中心は箱根強羅であるが、強は五であり、火である。羅は渦巻であるから、火のポチが遠心的に拡がるという意味になる。」
「蓮華台は又大きい意味も持ってゐるんで、高い山の周りには連山があって、こう、一寸高くなって、凹んで、又高くなってますね。<*>……つまり、あれが蓮華台ですよ。箱根の強羅はこの蓮華台になってゐるんですよ。」
と述べている。蓮華台とは、蓮華の形に作られた仏像の台座のことであるから、箱根山が大変神聖な、また、神秘な場所を意味しているというわけである。
*三重式火山の意
このように、箱根や強羅には、名前にも、地形にも、また歴史的にも、この地が根本霊地として定められていく、神業の象徴的な意義が秘められていたのである。
教祖は、箱根へ移転してから三か月を経た昭和一九年(一九四四年)八月、さらに熱海市の東山にほどよい家を購入し、一〇月に移った。
この屋敷は、かつて第一級行頭取だった石井健吾が昭和八年(一九三三年)ごろ建て、その後、昭和一四年(一九三九年)に山下汽船の創立者で、その立志伝をもって知られる実業家、山下亀三郎の手に渡ったものである。教祖は、地名にちなんでこれを東山荘と命名した。これによって、後の聖地、瑞雲郷を建設する足がかりが築かれることになったのである。
熱海は日本でもっとも多くの観光客が訪れる温泉都市で、美しい海岸線の織りなすその風光から、イタリアの名勝地、リビエラにちなんで、〝東洋のリビエラ〟とも呼ばれている。山懐にいだかれた熱海湾は、かつて活動した熱海火山の火口底が陥没してできたものといわれる。熱海温泉の歴史は古いが、昭和九年(一九三四年)、丹那<たんな>トンネル開通後、急速に発展するようになった。その恵まれた気候から、ここでは厳寒のさなか、年の暮れのうちから梅の花がほころび始め、一月未にはもう早咲きの寒桜を見ることができる。
熱海の地名について教祖は言う。
「熱海の方は『ア』が天、『タ』が真中、で表します。……熱海の『ミ』は水であり、天の真中の月の国の意味になる。」
教祖はしばしば、
「火は経に燃え、水は緯に流動するのが本性であり……。」
と言った。すなわち横に広がり拡大するということを、水の本性に基づく働きとしてとらえ、
熱海の聖地の意義を、世界大に教線が拡大することを意味すると説いているのである。
海山の眺め好きかな豊かなる温泉もありて熱海飽かなき
教祖はこの昭和一九年(一九四四年)以来、秋から春を熱海で、六月から九月までの夏の四か月を箱根で神務に携わるのを習わしとするようになった。そして箱根と熱海に土地を入手し、地上天国の雛型<ひながた>を建設するという大きな目的をもっていた教祖は、箱根に住む間は、神仙郷の造営の指揮を執り、熱海にいる間は、周辺を探索して、神業展開の拠点としてもっともふさわしい土地を求めたのであった。
瑞雲郷の土地が選ばれたのは、昭和二〇年(一九四五年)秋、弟子や奉仕者三十数名と共に十国峠を訪れた後、湯河原から徒歩で山を越え熱海にはいって、彼の救世会館付近の場所に至ったのがそのきっかけであった。