見真実の境地に到達した後にも、霊界の研究は続けられた。それは、神秘を解き明かし、謎を追求しょうとする単なる知的欲求からなされたものではなかった。霊界が、より根源的な世界として、目に見える現実世界を動かしているからには、人類の救済という大事業の実現は、その霊界の解明なしにはありえないはずである。それゆえ、神霊世界の究明に力を注いだのは、人類を幸福に導き、天国世界を実現するための重要な意義を担うものであったからである。
鎮魂による霊界の研究を始めてまだ間もないころ、教祖は頼まれて一九歳になる娘の肺結核を鎮魂した。第三期の重症で、回復の見込みはあまりないという症状であった。しかし、二度ほどの鎮魂により体調の好転する兆が見えた。そして三度目の鎮魂の最中である。それまでそばに坐っていた母親が突然立ち上がった。見ると形相ものすごく今にも教祖につかみかかろうとしている。
「貴様はよくも俺が殺そうとした娘をもう一息というところへ横合いから出て助けやがったな。
俺は腹が立ってたまらねえから貴様をひどい目に合わしてやる。」
と言う。それは打って変わった男の太い声であった。紛れもない憑霊現象(霊がのり移ること)である。教祖はびっくりして夫人に憑った霊に尋ねた。
「一体あなたは誰です。まあまあ落ち着いてください。」
「俺は広吉という者だ。」
「一体あなたは、この肉体とどういう関係があるのです。」
「俺はこの家の四代前の先祖の弟だ。」
「では、あなたは何がためにこの娘に憑いて取り殺そうとしたのですか。」
「俺は家出をして死んだものだから無縁で誰も構ってくれない。だから祀ってもらいたいと今までこの家の奴らに気付かせようと思い、病気にしたりいろいろなことをするが一人も気の付く奴がいない。癪にさわってたまらないからこの娘を殺すのだ。そうしたら気が付くだろう。」
「しかし、あなたは地獄から出て釆たのでしょう。」
「そうだ、俺は長く地獄にいたが、もう地獄はいやになったから、祀ってもらいたいと抜け出して来たんだ。」
「しかし、あなたはこの娘を取り殺したら今までよりもずっとひどい地獄へ落ちますが承知ですか。」
「それは本当か。」
「本当どころか、私は神様の仕事をしているものです。嘘はけっして言えない。また、あなたを必ず祀ってあげます。」
霊の話しっぶりは万事が江戸っ子調で歯切れがよく、その様子はまさに幕末ごろの市井(町中)の職人を思わせるものがあった。この広吉と名のる霊は教祖の説得に納得をしたばかりか、逆に共に力を合わせて娘の病気を治すことで約束ができあがった。こうして娘の病気は順調に快方に向かったのである。
また、これも昭和初期、岡田商店の図案係のアルバイトを勤めていた二〇歳ほどの美術学校の女学生があった。ある日その学友が岡田商店に彼女をたずねてきた。本人が仕事中であり、しばらく応接室に待たせたが、その様子がひどく沈んでいるので、教祖は不審に思い、図案係の女学生に尋ねてみた。すると意外な事情が判明した。それは二人は長い間、同性愛の間柄にあり、それが親に知れて厳しく叱責され、関係を絶つか学校を退学するかという選択を迫られたというのである。進退窮まった二人は相談の未、情死を決意した。その日が今日であるというのである。そこで驚いて図案係を別室に呼び、霊査〈れいさ〉(霊的に調べること)をすると、家鴨〈あひる〉の憑依霊が現われ、友人に憑依する鴬の霊に恋情をいだいていると述べた。教祖はその家鴨の霊を叱責し、戒め、数度の霊治療によって家鴨の霊を離脱させると、それに伴って相手の思いも冷却し、問題は解決した。この体験から、恋愛が霊作用であり、道ならぬ恋情を解決するには、一方の憑依霊を解決すればよいことを知ったのである。
このようにして、心霊研究は具体的な体験を積み重ねる中で、一つ一つ確実なものに高められていったのである。それゆえ教祖は、確信に満ちてつぎのように書いている。
「現代人が見たら荒唐無稽の説と思うかも知れないが、私は二十数年にわたり多数の霊から霊媒を通じ、又は他のあらゆる方法によって調査研究し、多数の一致した点を採って得た処の解説であるから、読者におかれても相当の信頼を以て読まれん事を望むのである。」
(『天国の礎』合本・九八頁)
教祖は、鎮魂に伴う憑霊現象の体験を通してばかりでなく、引き続き多くの神霊研究の書物をひもとき、心霊研究の会にも出席して霊界の研究に努めている。その証拠に昭和四年(一九二九年)一一月一四日の『日記』に、
心霊研究会の実験会に行きいと珍らしき霊の作用見しという歌がある。
この研究会が、どのような人々を中心に開かれたものであるかは判然としないが、第一に考えられるのは、当時心霊研究に没頭していた浅野和三郎〈あさのわさぶろう〉のことである。
浅野は一高から東大、さらに海軍機関学校教官へと進んだ、英文学に造詣の深い人物で、大正五年(一九一六年)大本に入信以来、その教養と熱烈な信仰によって、大本機関紙の主筆などを勤め、みずから宣教活動にも率先してあたるなど、大本内で高い地位を占めるにいたった。しかし、大正一〇年(一九二一年)の第一次・大本弾圧の後、彼は東京に「心霊科学研究会」を設立して、大正一四年(一九二五年)、ついに大本を離れたのである。それからの彼は、神霊の実在を客観的、科学的に証明するという問題に没頭して、欧米に盛んであった心霊科学を日本に紹介することに努めた。その後、関東大震災を契機に大阪へ移った。後に教祖は、
「日本においても故浅野和三郎氏のごときは心霊研究家としてその造詣も深く、著書も多数あり、数年前物故したが、私もいささか関係があったので惜しまれるのである。」と書いている。
教祖の霊界研究の目的は、つぎの一文から明らかである。
「霊的事象を信ずることによって、いかに絶大なる幸福の原理を把握し得らるるかは余りにも明らかである。故に如何なる信仰をなす場合に於ても、この霊的事象を深く知らない限り真の安心立命は得られないことである。」
これによって、人類を幸福へ導くには、何より霊界の実相を知って、魂の奥底に霊の働きのなんたるかを深く刻みつけねばならないという、根本的認識が教祖にあったことがわかる。