大正一二年(一九二三年)関東大震災の後、ふたたび大本の信仰に戻った教祖は、それから大正一五年(昭和元年・一九二六年)までの三か年間、人知では計り知れない神秘の世界を探求する意欲に燃えて、大本の書物、ことに『お筆先』を熟読するかたわら、心霊研究グループに接触し、また、種々の心霊学の本をひもとき、神霊の有無、神と人との関係、信仰の妙諦(奥深い真理)などの研究に、寝食を忘れて没頭した。教祖は、
「人生観は百八十度の転換をなし、人は神仏の加護を受ける事と“霊の実在を知らなければ空虚な人間でしかない”事を覚ったのである。また道徳を説くに当っても“霊の実在を認識させなければ無益の説法でしかない”事も知り得たのである。」
と述べている。
教祖がこのころ読んだ書物には、西洋における心霊研究の名著といわれるイギリスJ・S・M・ワードの『死後の世界」』(大正一四年・一九二五年・日本訳発行)や、オリバー・ロッジの 『死後の生存』(大正六年・一九一七年・日本訳発行)があった。これらは近代科学を発展させ、世界で初めて産業革命を起こしたイギリスにふさわしく、さまざまな心霊現象を客観的、経験的に記録し、西洋の霊界の実相を克明に記した書物である。主観的な独断に走ることを嫌い、客観的な裏付けを尊ぶ教祖は、こうした西洋における心霊研究の在り方を高く評価し、そこから多くを学んだのである。
それまでまったく未知の領域であった神霊の世界が目の前に開かれていく感動と、それにつれて尽きることなく高まっていく関心は、さながら恋愛の心情に通じるものであった。宗教が奥深く蔵している神秘への憧れは、ちょうど愛してやまない恋人に魅惑され、憧れる思いによく似ている。それと同じように、より深く相手を知り、その者に肉薄したいという情熱が神霊世界に向けられたのである。教祖はみずからの経験から、
「信仰の極致は神への恋愛である。」
とはっきり記している。
日本語の宗教という言葉は、レリギオというラテン語に由来した英語やドイツ語の訳語である。その語源的意味には、「しばりつけられる。」「それだけをいつも考え執心する。」といったような説もあり、それを端的に示すのが恋愛感情なのである。
そして、恋愛は結婚によって完結し、落ち着いた持続の情緒、つまり愛情に変わっていく。しかし、神霊世界の神秘は眼前の一つが解き明かされると、つぎにさらに大きな世界が広がっていく。そして新しい神秘世界が現われてくるのである。こうして神への恋愛は、終わることなく、時とともにますます高められ、また、深められていくのである。
その心情を詠んだものにつぎのような歌がある。
人恋ふる熟き心のありてこそ命までもと神を恋ふなり
たまきはる命をかけし越しかたの恋にもまさる恋を知りけり
教祖の身辺に神秘的な出来事が起こり始めたのは、大正末期のこのころからであった。自己の使命や因縁については、まだはっきり「自覚する以前」のことであったが、すでに神霊の世界からの働きかけが、ひそやかに始まっていたことが知られる。
大正一三年(一九二四年)の夏の終わりか、秋の初めのことであったろうか。地図の作製を仕事にしている野口秀昌という男がたずねてきた。大本について話を聞きたいというので、いろいろ信仰談義をかわしている最中、野口は突然、教祖の顔をしげしげと眺めながら、
「大本は観音様と関係があるのですか。」と尋ねるのである。教祖は「大本は神様だし、観音様は仏様だから関係がない。」
と答えた。すると、野口は意外なことを言い始めた。
「しかし、先生の坐っている右の方に、等身大の観音様の姿が見えますよ。先生が今、手洗いにお立ちになると、観音様が後ろからついて行かれ、部屋に帰られて先生がお坐りになると、観音様もお坐りになりました。」
教祖はけげんに思い、なおもその様子を聞くと、
「観音様は目を閉じておられ、お顔やお体は絵や彫刻にある通りです。」
と言うのであった。野口はこの時、突然霊眼が開け、観世音菩薩の姿を霊視して、そのことをありのままに教祖に伝えたのであった。野口はその後、教祖の家へ行こうと思っただけで、目の前にありありと観世音菩薩の像が見えるようになったという事実を報告している。それからしばらくして、今度は、大本の一信者から、
「あなたの頭の上に渦巻が見え、その中心に観音様がおられ、背中に十の字が見える。」
と言われたこともあった。
このように、教祖の身辺に、一時として観世音菩薩が顕現し、それを第三者が霊視するというまことに不思議な現象が相次いで起こったのである。もちろん、それまでの教祖は、観世音菩薩の信仰などまったくもっていなかったが、こうした事実を通して、しだいに観世音菩薩との因縁を自覚し始めるのである。
ここで教祖の歩みを振り返ってみると、じつは幼少年のころから観世音菩薩と深い因縁をもっていたのである。すでに記した通り、東京三河島にある岡田家の菩提寺は観音寺といい、十一面観音を本尊として祀っている。また、父・喜三郎が古道具の夜店を出しに行った浅草寺や、子供のころ、その境内を遊び場にしていた長昌寺の本尊は、ともに聖観音である。妻・よ志もまた、名古屋の大須観音の門前町に生まれている。
幼いころからのことをあれこれ思いめぐらした教祖は、改めて、観世音菩薩との浅からぬ宿緑(前世からの因縁)に気付くのであった。