私は信仰の味について世人に告げたいのである。天下何物にも味のないものはない。物質にも、人間にも、生活にも、味の無い物はほとんどあるまい。人生からこの味を除いたら、文字通り無味乾燥全く生の意欲は無くなるであろう。従って人間が生に対する執着の根本は、味による楽しみの為である-と言っても過言ではあるまい。信仰にも味のある信仰と味の無い信仰とがあるのは当然である。ところが世の中は不思議なもので、恐怖信仰というのがある。それは神仏を畏怖<いふ>し、戒律に縛られ、窮屈極まる日を送り、自由などは全く無く、常に戦々兢々<せんせんきょうきょう>たる有様で、こういう状態を私は信仰地獄と言うのである。
本来信仰の理想とするところは、常に安心の境地にあり、生活を楽しみ、歓喜に浸<ひた>るというのでなければならない。花鳥風月も、百鳥<ももとり>の声も、山水の美も、悉<みな>神が自分を慰めて下さるものであるように思われ、衣食住も深き恵みと感謝され、人間は固<もと>より鳥獣、虫魚、草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる。これが法悦<ほうえつ>の境地であって、何事も人事を尽くして後は神仏に御任せするという心境にならなければならないのである。
私は常に、どうしても判断がつかぬ難問題に逢着<ほうちゃく>した時、神様に御任せするという事にして、後は時を待つのである。ところが思ったよりも良い結果を得らるる事は幾多の体験によって明らかである。ほとんど心配したような結果になった事は一度も無いといってもよい。又種々の希望を描くが、その希望よりも必ず以上の結果になるから面白い。こういう事もある。何か悪い事があると、それを一時は心配するが、きっと良い事の前提に違いないと思い、神様に御任せしていると、必ず良い事の為の悪い事であった事が分り、心配したのが馬鹿らしくなる事さえ往々あるので、実に感謝に堪えない事がある。要するに私は奇蹟の生活者と思っている。私が言う信仰の醍醐味<だいごみ>とはすなわちこのような次第である。