新本部の発足

 昭和一〇年(一九三五年)一月、麹町仮本部で立教した「大日本観音会」は日に日に躍進し、 数か月もたつころには、もう仮本部の建物が手狭になるほどであった。そこで、本部にふさわしい土地、建物を物色することとなった。その最終的な候補地としてあげられたのが、東京南部の郊外、玉川(世田谷の最南部の多摩川にのぞむ町。河川としての多摩川は、現在「多摩川」と書くが、古くは「玉川」と書かれたことが多い)であった。教祖は久しい以前から多摩川の澄んだ流れを愛し、すでに昭和の初めから何首か歌にも詠んでいる。

   うつろひし武蔵野原も月の夜は活き玉川むかしながらに

  武蔵野の末にたなびく春霞一筋はけし富士と玉川

などである。
 教祖が屋敷を探し求めて多摩川べりを歩いたのは、昭和一〇年(一九三五年)六月五日のことである。

  何れ建つ本部の候補地探さんとヨシ清水連れ玉川へ行く

 しかし、この日には適当な場所が見付からなかった。この時作った歌であろうか、

  玉川のま下に流らふ丘の上に家建て住まばやと妻ふといふも

という歌が昭和一〇年(一九三五年)の六月の作として伝えられている。

 それから一〇日たった六月一五日のこと、今度はよ志や、清水、井上のほかに、玉川出身の竹村良三を伴って、ふたたび玉川へ出かけ、竹村の菩提寺に立ち寄った。その時上野毛にある男爵・田健次郎邸が売りに出されていると聞いたのでさっそく行ってみた。そして現地に立った時の印象を、約三月経た九月一一日の月次祭講話の中で事細かに話している。

  「見ると実にぴっくりした。あんまりよくて立ちすくんだ。そして一も二もなく、これだといって、これは用意してあったものだと言ったのです。それは庭の地形といい、又高さも一番高い所だし、全部で七千五百坪(約二万五〇〇〇平方メートル)<*>あり、特に半分がよく、三千二百坪(約一万六〇〇平方メートル)<*>といふのが別になってゐて馬鹿にいい。そこから見下すと丁度下は桃畑です。そこの所だけが桃畑で、そこより外は全部田圃で、その先が玉川があり橋が見え、そこから武蔵野の丘続きになってゐる。恐らく東京中探しても、あの位の眺望<ちようぼう>の位置の良い所はないと断言してもいい所であります。」
     *( )内は編集者・挿入

 すっかり気に入った教祖は、帰宅するやその感慨を歌に詠んだ。

  月に好く花にまたよし雪によき玉川郷は天国の花

 この日初めて見たその土地を、さっそく「玉川郷」と名付けたのである。

 当時、経済的に苦しかった教祖にとって、このような広い土地を入手するのは、本来夢にも等しいことであった。しかし、思いもかけない所から、入手の糸口が急速に開けていったのである。

 それは当時、大森で布教していた岡庭真次郎の所へ浄霊を受けに来ていた人が、たまたま所有者の田家と昵懇の間柄で、その人の口ききから見晴らしのよい三二〇〇坪を安価で入手できることに話がまとまったのである。ここには都内でも数少ない白と紫の藤があり、また今上天皇(当代の天皇。昭和元年・一九二六年継承)が行幸宿泊したおりの「手植えの松」もあるという、由緒ある屋敷であった。
 
 この時最終的に落着をみた玉川郷の値段は九万八〇〇〇円である。当時、教祖の手元には五〇〇〇円しかなかったが、手金一万円を打ってくれればすぐにも立ちのくという先方の意向なので、五〇〇〇円を借り、合計一万円を手渡し、一〇月一日に引っ越したのである。

  玉川郷へ引移りけり風もなくいと穏かな日和りける

 このように非常な好条件で契約が成立した玉川の土地であったが、移転してから後、順調に事が運んだわけではなかった。昭和一二年(一九三七年)の未、田家が所有していた土地の北側の半分をすでに購入していた五島家との間に、教祖の住む土地の所有権をめぐって行き違いが生じてしまった。この時に始まった係争問題は、昭和三〇年(一九五五年)の、教祖昇天の直前まで続いたのである。

  あくがれし玉川の里に住みつきて朝な夕なに富士にしたしむ

 こうしたいきさつがあったが、昭和一〇年(一九三五年)一〇月一〇日、引っ越してから一〇日目のこの日、「大日本観音会」総本部発会式の祭典が、盛大に玉川郷で執り行なわれた。

 この日の祭典は午後一時から屋外で行なわれた。絶好の天気に恵まれ、すがすがしい参拝の日であった。一千余坪の芝生にしつらえた天幕張りの野外祭壇には、総檜五尺六寸七分(約一・七メートル)の神床が設けられ、八雲琴の調べがおごそかに流れたのであった。

 教祖の講話のあと、直会<なおらい>が催された。一同は教祖が「万象台」と命名した高台から、澄み切った多摩川の秋景色や、その向こうに連なる丹沢の山々、そしてはるかに富士の霊峰を眺めながら、夕方まで楽しい時を過ごしたのであった。

 振り返ってみると、この年の元日に、麹町の仮本部で発会式が行なわれたが、玉川郷の発会式はそれから十月十日たった後のことであって、奇しくも人間が、母胎に宿り、出生にいたる期間と同じ時をかけて、新しい本部が生まれたのである。この日から麹町の仮本部は東京本部と改められた。そしてこの時の「大日本観音会」の会員数は約六〇〇名、支部は一一か所にふえていた。

 やがて、昭和一一年(一九三六年)春になると、玉川郷の自然美ばかりではなく、この地こそ神業の拠点であり、ここを中心に神の教えが広まる重要な地である──という歌が詠まれるようになるのである。

   千早振真<ちはやぶるまこと>の教の御光は玉川郷より輝き初めなん

 教祖は、この思いに燃え、ますます意欲的に救世の大業を推し進めたのであった。