すでに昭和二、三年(一九二七、八年)ごろから教祖は福本金蔵、長島孝の両番頭に岡田商店の経営、販売の実務を大方任していたが、昭和六年(一九三一年)の一月二一日には、両人に店の営業権を譲る話をし、二月五日には、引き渡し条件などを決めている。それは、取引先をそっくり譲るが、その代わりに、店に残っていた品を、月々売り上げの中から教祖に返していくというのがその時の条件であった。
二人の番頭への店の引き継ぎが進められていたさなかの二月三日、教祖は、十数年前、まだ岡田商店を開いて間もないころ、三越の仕入部の社員として店を訪れ、教祖の人柄に感銘を受け、取り引きを始めるきっかけを作ってくれた高橋繁治をたずねている。取り引きが始まってからは、毎年正月に高橋の家を訪れるのが決まりであったが、こうして商売から手を引こうとする今、その恩義に対して最後の礼を尽くしたのであろう。
教祖が大正九年(一九二〇年)宗教の世界にはいり、みずからの使命を自覚していく過程にはさまざまな有為転変がある。
教祖は宗教の世界にはいった初めから、自分が世界人類を救済し、この地上に天国世界を建設するというような使命を自覚していたわけではなかった。信仰を求め、神に縫ったそもそもの動機は、第一に一個の人間として、自己自身の苦悩から救われることを求めたからである。
しかし神は教祖の身辺に、次々と奇蹟を現わし、その使命を自覚することを迫ったのである。その道程は、一方において奇蹟の連続する輝かしいものであったが、それは同時に、教祖の内心にあって、絶え間ない葛藤を生まずにはおかない険しい道にほかならなかった。精神的にも、経済的にも、物心両面にわたる多くの苦難が待ち受けていたからである。そのころのことを教祖は、
「金儲けを止めた以上借金返済は不可能となったので、アイス族共*代る代る差押えに来た。何しろ信仰的病気治しの御礼位では知れたものだから、そこで生活費を極度に切り詰め、最低生活で辛抱し、少しずつは返したが、中々思う様にはゆかなかった。」
と記している。
*氷菓子をさす英語から転じて高利貸しを意味する
昭和五年(一九三〇年)六月九日から教祖の側近にあって奉仕することになった岡庭通明は、初めて松風荘を訪れたその日、箪笥などに差押えの赤紙が貼られているのを見て驚いた。しかし、教祖はけげんな顔をしている岡庭に向かって悠々とした調子で、
「今はこの通り不自由しているが、そのうち、私のまわりには、降るように金が集まって来るんだ。」
と言った。
神の大任を果たすために一介の市井の人から超脱する道はけっして安易なものではない。しかも、店を手放し、決まった収入のあてもない、未知の環境の中に身を投じていくのである。
事実、この後、電話料が払えずに電話を止められてしまったこともあり、納豆や目刺しで食事を済ますという時期もしばらく続いたくらいである。そのころの歌に、
二度までもクリーニングの帽かむりはじらひのなき吾となりけり
とある。倹〈つま〉しい暮しぶりと、それに対する教祖の耐忍の心を偲ぶことができよう。昭和五年(一九三〇年)一二月三〇日の『日記』には、また、
いつになく今年の暮は○〈かね〉の為め苦しむ事のなきぞ嬉しき
とあり、当時の心情が率直に歌われている。また、後年、つぎのようにも記している。
「愈〈いよい〉よ全身全霊を打込み、神の命のまま進む事となった。何しろ神の意図が半分、自己意識が半分というような訳で、普通人より心強い気もするが、普通人より心細い気もする。
もちろんそれ程の経済的余裕もなく、まづ数ヶ月維持する位の程度しかなく、確実な収入の見込もない。実に不安定極まる生活ではあるが、然し絶間ない奇蹟や神示の面白さで、経済不安など忘れて了ふ程で実に、歓喜の生活であった。」
このように、ともすれば不安に襲われる境涯の中で、教祖があえて救世の道を突き進んで行ったのは、相次ぐ神の証しと、そこからわきあがる感動、確信、そして人々の救われる喜びがあったからと言えるのである。
小間物の生業はじめて二十六星霜〈せいそう〉うつり廃めし今日かな
今日よりはいよいよ神業専一に進む吾身となりにけるかな
立春の今日より後顧の患(うれい)なく神業いそしむ吾となりける