このような大量の揮毫になると、そのために墨をするのが大変だった。何しろお守り五〇〇枚を書くのに、大きな丼一杯の墨を必要としたのである。しかも、墨汁のようなできあいのものではなく、必ず硯ですった墨が使われたのである。ところが、硯の池一杯に入れた水を漆黒(漆を塗ったように黒く光沢がある)の濃さまですり上げるのは、なかなかの仕事である。そのうえ、それをさらに大丼一杯作らなければならない。しかも、大丼一杯がようやく一回分なのであるから大仕事である。
そのころ、墨すりは聖地建設の奉仕隊員の受け持ちになっていた。雨天で屋外の作業が中止の時など、大きな硯が一〇面近くも用意され、墨すりが始まるのである。しかし、誰がしても大変な労働であることには変わりがない。時間もかかることなので、なんとか早く簡単にする方法はないかと、関係者はいろいろ工夫をした。墨を水につけたり煮たりして、柔らかくしてからすったこともあった。また柔らかくした墨を、硯ではなくすり鉢ですってみたこともあった。しかし、そういう墨を教祖はすぐ見破って、
「墨は硯でするのが一番いい。することで艶も出る、大変だろうが、する人も修行なんだから。」
と注意したのであった。
また別の奉仕者が工夫を重ねて「墨すり器」というものを考案したことがあった。昭和二四年(一九四九年)ごろのことであったろう。これはグラインダー(研磨機)の応用である。手で墨をするのとは逆に、墨の方を固定し、硯を回転させる方法である。試作品を作ってテストしたところ大変調子がよいので、さっそく教祖に報告して、使用の許しを願った。
すると教祖は、この時も笑いながら、
「私は傘屋や提灯屋じゃない。墨すり器で墨をするとは何事か。使ってはいかん。墨は誠を込めてするのが本当だ。とくに、信仰の生命ともいうべきお守りやご神体を書く墨を、そんな横着な考えで作っては駄目だ。どんなに骨が折れても、墨は手ですりなさい。」
と言ったので、新案墨すり器はついに.使わずじまいに終わってしまったのである。
墨をするのも大変だったが、墨を適当な濃さに調合することも、不慣れなうちはなかなかむずかしいことであった。神体や扁額のものと、お守りの書では墨の濃さが違っていたが、その濃さを計るメーターなどはないので、すべて勘で調節するのであった。
座に着いた教祖は、筆で丼の墨をちょっとかき回してみて、即座に、
「今日のは少し濃すぎる。」
と言う。そこでつぎの時、前より少し薄いのを準備すると、
「今日のは薄すぎる。」
と注意を受ける。今度こそは、と三回目を用意すると、教祖はやはり筆でかき回してから、
「もうそろそろ加減がわかってもよさそうなものだ。」
と笑いながら言うのであった。このようにして、新米の奉仕者は、ひとつひとつ教育されていったのである。
ある日、この墨の濃さを例に、教祖は中庸ということについて話をした。
「墨の濃さは、薄いようでもあるし、濃いようでもある。濃いんだか、薄いんだかわからない、そういう渡さが一番いい。これができるようになれば英雄だ。普通の人は、濃いって言うと薄くしすぎるし、薄いって言うと濃くしすぎる。そういうのを極端居士っていうんだ。まあ、一種の片端ね。ちょうどいいっていうのはじつにやさしい、みんなはむずかしいって言うけど、これぐらいやさしいことはない。私のしていることはみんなそうだ。」
と話したことがあった。
教祖はこのように、さりげない会話の中で信仰の奥義を語り、側近の者たちを教えていった。墨の濃さひとつにしても、こうした教祖の心を知らされて、信仰を磨く大切な学びとなったし、信仰実践の機会ともなったのである。
教祖が自筆の原稿を「神の書」として丁重に取り扱ったことは前に記したが、みずから揮毫した書画もまた同様の扱いをしたのであった。とりわけ礼拝の対象である神体は、とくに大切に取り扱い、最初のころは表装も表具師を呼び、手元で完了してから信者に下付するのが定めであった。