終戦後三年を経たころ、教線は爆発的に発展を続けていた。新たに入信した人ばかりでなく神縁を得てから久しい時を経た人の中にも、「ぜひとも大先生にお目にかかりたい。」という希望者がふえる一方で、東山荘別館での面会では、もはやさばき切れなくなった。そこで昭和二三年(一九四八年)五月、箱根の早雲寮(日光殿)が仮落成すると、その年の八月から神山荘に代わって、ここを面会所とした。また熱海では同年五月、市の中心清水町の小倉石油社長の別荘を購入、「清水町仮本部」とし、一〇月から面会所として用いたのである。
清水町仮本部は敷地約一〇〇〇坪(約三三〇〇平方メートル)、建物約一七〇坪(約五六〇平方メートル)で、その一部が面会所にあてられ、東山荘別館に比べて大分広くなった。しかし、参集する信者の増加は著しく、ここもたちまちいっぱいになり、あふれた信者は庭に立ったままで、参拝とその後の面会の二時間余りを過ごさねばならなかった。このため最初は天幕を張ったりしたが、やがて仮設の屋根を造り、張り出しの廊下を造るようになった。一人でも多くの信者が楽に参拝できるようにとの配慮からである。
また、すでに記したように、昭和二五年(一九五〇年)四月一三日の熱海大火のおり、周囲の建物はすべて焼け落ち、立ち木も焼け焦げた中に、焼け残ったのも、この仮本部にまつわる大きな奇蹟であった。