社会の注目

 発会式から一週間後の昭和一〇年(一九三五年)一〇月一七日の『日記』に、

  地崎なる人訪ね来て北海道定山渓の神体享けたり

 とある。地崎は名を字三郎と言い、当時、北海道小樽市で「小樽定山渓自動車道株式会社」という会社の取締役.支配人をしていた。彼は本業の建設会社・地崎組を経営し、また各種の事業に携わった。戦後は代議士を勤め、昭和二六年(一九五一年)、五四歳で没している。地崎はまた、熱心な観音信仰者で、札幌郊外の温泉場として知られる定山渓に三一体、近くの朝里海岸に二体、計三三観音を奉斎したが、その中の一八番札所を岩戸観音として、教祖筆の観音像を受けて祀ったのであった。

 一〇月二六日、現地の定山渓において「入仏式」(仏を迎え入れ安置する時の式典)を行なったという報告の手紙が、大日本観音会の機関誌『光明世界』第五号に掲載されているが、教祖の揮毫にになるこの観音像は、その後も引き続き定山渓に祀られ、今日も参詣の人々が訪れている。

 玉川郷の本部では、引き続いて一一月、一二月の月次祭、また、一一月一一日の秋季大祭と相次いで祭典が催され、活発な宗教活動が展開された。

  始めての秋季大祭信徒<まめひと>は三百人位にて旺なりける

 『日記』に記されたこの和歌からも、大変な発展ぶりであったことがうかがわれる。ちょうどそのころ、一二月一七日付の『東京日日新聞』に、大宅壮一<*>の「大日本観音会探訪記」が載った。

    *明治三三年(一九〇〇年)大阪に生まれる。幼少時から文才を発揮し、東京大学中退後、若くしてジャーナリズムの道にはいった。昭和八年(一九三三年)、みずから創刊した『人物評論』を通じて辛辣な人物批評で知られるようになった。昭和四五年(一九七〇年)没
 
  「類似宗教の氾濫③
     今売出しのスター
      “観音力”の大先生
      霊妙不思議な御利益」

という見出しで、教祖の顔写真と、金龍神の霊写真が掲載されるとともに、つぎのような記事が掲載されたのである。
 「東京も麹町区半蔵門といへば、新議事堂や警視庁のすぐ近くである。そこの停留所から少し入ったところに『大日本観音会』といふ角柱が立ってゐる。これが最近売り出しの新しい『神様』のスターだといふので二、三日前私は訪ねて行った。」
 はじめ階下で、三〇歳くらいの男の人からいろいろな奇蹟談を聞いて、

 「さういふあらたかな『神様』なら、ちょっとでもいゝからぜひお目にかゝりたいといふと、それではといふので二階の『大先生』の居間に通された。真中に頭髪の真白な、島崎藤村を少し若くしたやうな男が坐って、その両側に十人ばかりの男女がづらりと並んでゐる。」

 そこで、教祖に、新宗教を開いた動機や、観世音菩薩との関係、宗教と治病等について尋ねたことを記し、さらに、
 「欄間のところに治療代が出てゐるが、それによると初回二円、二回一円で、別に『出張施術料金』の規定があってこれは初回五円、二回二円になってゐる。『神様』も往診するらしいが、普通の町医者よりも高い。

 それでもこの一月一日に開業したばかりだが、毎日四五十人の患者があり市内外は十数ケ所の支部ができて……。」
などと書いている。

 ところがおもしろいことに、この大宅壮一の一文が、中風で療養中の医学博士・竹内慶次郎の目にとまった。竹内は、それから一月もたたない昭和一一年(一九三六年)一月六日に教祖をたずねてきたが、浄霊によって彼の中風は大変よくなった。そこでさっそく入信し、医師という立場を生かして、教祖の宗教活動に協力するようになった。

 竹内は、その年の五月に発足した「大日本健康協会」の顧問に就任するとともに、岩手県の盛岡にあって大いに浄霊を広め、やがて、東京から治療士の応援を求めるまでになった。この要請を受けて教祖は、さっそく荒屋乙松を派遣したのである。この時、荒屋は絶えず警戒を続けていた警察の注意をそらすため、竹内の弟子という触れ込みで浄霊に専念し、多くの人々を救っていったのである。

 竹内はこのほか、『巖手公論』という一般雑誌に「医師から観た岡田式療病術の実績」と題した文章を寄稿して、大要つぎのように記している。

 「私は明治四〇年(一九〇七年)東大医科を卒業、医化学を専攻して博士号を得、ドイツなどへ留学した後に、盛岡で病院を経営していたが、三年目の昭和三年(一九二八年)、突然脳溢血、──中風に倒れてしまった。さっそく、何人もの権威ある名医にみてもらったが、いずれも『完全麻痺、再起不能』であった。

 その後私は、信仰生活にもはいり、上京して二年ほど掌療法を受けたが大した効果は感じられなかった。ちょうど一二月一七日、東京日日紙上で大日本観音会の記事を見、読了感がじつに愉快なのでさっそく東京本部をたずねてみた。

 まず『岡田仁斎先生』の治療を受けたところ、驚くべきことは、じつに従来覚えたことのない快さで、『完全麻痺』から日一日解放されて行く。近く全快の自信を得ることができた。しかも『仁斎先生』は、無医薬で万病を治療されるばかりか、『治療士』を多数養成されつつあり、私も講習生として、毎日先生の側近であらゆる治療を親しく見学することとなったが、じつに医学の企及することのできないような不治病がどんどん治っていくその実績に驚嘆したのである。

 この岡田式療病法の優れた治病成績こそ、じつに人類の病苦を救う絶対価値のあることを確言してはばからない。」

 竹内の勧めによって教祖は、この『手公論の昭和一一年(一九三六年)七月号に「観音力とは如何なるものか」という論文を、さらに九月号には「西洋医学の大誤謬」という一文を寄稿している。

 教祖が寄稿したのは右の『巖手公論』のみではない。昭和一〇年(一九三五年)から一一年(一九三六年)にかけて、東京芝区の内外公論杜から発行の月刊誌『内外公論』にも毎月のように寄稿を続けている。現存するものだけでもつぎの通りである。

 昭和一〇年一〇月号「日本医学の創建に就て」

     一一月号  「科学を超越した治病法」
 昭和一〇年一二月号~昭和一一年二月号
           「観音運動の真諦を識れ」
 昭和一一年 六月号~七月号
           「健康日本の建設と西洋医学の大誤謬」

 竹内はその後、教祖が活動を禁じられていた時代に、ふたたび活動を許されるきっかけをつくるなど重要な働きをした。最後には、荒屋乙松らに後事を託して神業から身を引き、医業に専念していたが、戦争が激しさを加えてきてからは岩手県紫波郡に移り、昭和二三年(一九四八年)六七歳で死去したのである。

 このように「大日本観音会」は発会してから一年半たらずのうちに評判はとみに高まり、教線は急速に広がっていった。このころの発展ぶりを井上茂登吉は、「大日本観音会は驚異的発展をし、たちまち新宗教中の白眉的存在<*>となった。」

と記している。
  *同じ種類のものの中で、一番優れているもの

 しかし、教線が伸び、日本医術が奇蹟によって発展すればするほど、その影響を受ける宗教界や医学界の一部に、ひそかに特高警察を通じて「大日本観音会」の弾圧を図ろうとする動きが出てくるのであった。