聖なる地へ

 教祖は早くから信者に疎開するよう勧めたが、昭和一九年(一九四四年)にはいると、今度はみずから積極的に移転先を探すようになった。もちろん、これは単なる疎開ということではなかった。教祖が東京を離れるということには、神業上の深い意味があったのである。

 それは、神業の進展に備えて、その活動の拠り所となる土地を探すということであった。このことは当時、関係者に、
 「私の真理を広める殿堂がほしい。」
と明言している言葉にも知られるのである。

 神業の拠り所として着目していたのは、当初から箱根、熱海<あたみ>であった。教祖は若いころから、箱根、熱海に心引かれるものがあり、このうえなく両地を愛し、何度も旅行をしている。そのうち昭和一六年(一九四一年)と一七年(一九四二年)には、二年続けて一泊二日の旅をした記録が残っている。

 昭和一六年(一九四一年)は、一〇月二二日に、よ志や井上茂登吉、渋井などの五名を伴<ともな>って、熱海におもむき、大野屋で生食をとってから箱根へと向かい、宮ノ下の富士屋ホテルで一泊、翌日は江ノ島経由で帰宅している。
 『明麿近詠集』の中に収められている「箱根熱海紀行」一三首はこの時の作である。

   熱海なる大野屋の宿の四階のおばしま<*>に太平洋を久に眺めぬ
       *らんかん。てすり

   老杉の昼尚暗き径抜けて箱根神社に詣でけるかな

 翌昭和一七年(一九四二年)には、七月一四、一五日の両日、伊豆から箱根を周遊している。
まず熱海に立ち寄り、伊豆の東海岸を通り、連台寺温泉で昼食後、伊豆西海岸を通って、修着寺温泉の新井旅館に一拍。翌日は三津海岸から沼津へ、そして御殿場から乙女峠を経て強羅へと向かい、強羅ホテルで昼食の後、横浜経由で帰宅したのである。
 
 箱根から伊豆に至るこの一帯は、現在、富士・箱根・伊豆国立公園に指定され、多くの観光客が集まる有数の行楽地になっている。とくに箱根は、数ある国立公園の中でも、もっとも早くから指定を受けた地域の一つである。(富士・箱根は昭和一一年・一九三六年に国立公園に指定され、伊豆が加えられるのは昭和三〇年・一九五五年である)

 箱根は変化に富む山容に湖を配し、初夏の新緑や秋の紅葉など、その美しい景色によって知られている。しかも夏涼しく、東京からも便利なことから、昔から軽井沢と並び称される避暑地とされ、また、世界的な観光地としても名高い場所となっている。

 優れた景色ばかりではない。細長く延びた日本の、ほぼ中央に位置するという、その地理的な条件から、日本でももっとも多くの種類の野鳥が集まる場所であり、また、この地域に生える苔の種類の多いこともわが国屈指といわれている。このように、この地には特別に豊かな自然を見ることができるのである。

 一方熱海は、戦後その一部が富士・箱根国立公園に編入され、箱根とともに自然の風光に恵まれた出湯の町である。しかも、ここは山裾に広がる町の、いたるところから海を眺望することができる。また、周囲を山に囲まれているというその地形から、東の小田原や西の招津よりも、ひときわ温暖な気候に恵まれている。

 ここで注目しなければならないのは、箱根や熱海が風光明媚で、優れた観光地であることはもちろんであるが、これらの条件に加えて、古来、霊域として他の土地とはっきり区別されるものがあったことである。このことは、多くの人々の記憶からは消えているが、過去をたどればきわめて神秘な意味合いが浮かび上がってくるのである。

 鎌倉時代の将軍、源 実朝が「箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」と詠んだことで知られる「沖の小島」は熱海湾からさして遠くない初島のことである。この初島から陸の方を見ると、現在の熱海聖地・瑞雲郷に建つ救世神殿、救世会館は東方を向いており、相模湾から昇る太陽の光をまともに受ける形になっている。

 さらに、この東からの線を延ばすと、その線上に日金山(別名、十国峠)が位置する。ここからは昔の区画でいう関東の十州や伊豆の島々が望見できる。この日金山の日金は光の訛であって、奈良朝時代の『万葉集』に見える「伊豆能多可禰」(伊豆の高嶺)や、鎌倉時代の『吾妻鏡』に書かれた「光峰」は、この山のことである。そもそも「日金」という名は「火が峰」のことであり、この日金山の山頂には、火の神「火牟須比命」を祀る神社がある。この杜は由緒正しいもので、平安朝の『延喜式』に式内社としてあがっているくらいである。

 また、『鎌倉実記』という文献には、この日金山に、天照大御神の孫にあたる瓊々杵尊の荒神魂が祀られたとある。この日金山の東方には、「岩戸山」があるが、この山は、天照大御神が一時その身を隠した高天原にある「天の岩戸」に関連する名の山である。このように、古来この地にまつわる神々のいわれから、日金山周辺の神秘な意義をうかがうことができるのである。
 また、伊豆半島はかつて伊豆国と称されたが、その伊豆は、「斎<いつく>」を意味する言葉であり、伊豆国全体が、「神を斎きまつる神聖な地域」とみなされていたのである。

 そして、こうした神聖な地域の背後には、富士の霊峰がそびえている。

 すでに、多摩川の丘陵上にあった宝山荘の一角に富士見亭が教祖の設計で建てられたことには触れた。そのさい、教祖は、夏には西日を避け、冬には北西の季節風を避けるために西側を閉ざすという建築上の配慮を無視してまでも、富士が望めるように西向きの家を建てたのであった。宝山荘に移る以前から、教祖は昭和五年(一九三〇年)に富士に登るなど、その霊的な意義を深く認めており、またその時代には富士の美しい姿をこよなく愛して、色紙に絵を描いたり歌に詠んだりもしている。

 教祖は橋場に誕生以来、東から西へと移り住み、そのことの中に、みずからの〝東方の光〟としての使命の現われを自覚している。そして戦中から戦後にかけて、宝山荘を経て箱根、熟海に霊域を建設する、東方の光として西進するという歩みの霊的な線上に、長年愛してやまなかった富士の霊峰が位置しているという事実には、また深い神秘が感得されるのである。

 このように、聖地と定められた熱海、箱根の一帯は、歴史的にも、また地理的にも神秘な意義を担っている。これについて教祖は、すべて神の経綸によるものであるとして、つぎのように書いている。

 「造物主が地球を創造された時、永遠な計画の下に設計をされた事である。恐らくそれは何百万、何千万年前の事であろうが、地球を御造りになる時、将来日本という世界的公園としての、パラダイス的土地を定められ、その条件として気候、風土、自然美等を、夫々申分なく具備され、時を待たれ給うたのである。もちろんそれが我熱海であり、次の箱根もその意味であり、富士山もそうであろう。特に熱海に至っては、最高最美の理想境を目標とされたものであろう。そうしておいて物質文化の進歩の程度がようやく天国建設に適するような状態になったので、ここに私という者を生れさせ、種々な経路を経て、熱海に住むようにされ、ここに御目的である地上天国の模型の建造に、着手されたのである。」

 今日、伊豆から熱海の背後を通って、箱根、富士に至る一帯が、その優れた風光によって、国立公園に定められていることは、この地域の具備している自然条件がいかにすばらしいかを雄弁に物語っている。この地上に天国を建設しようという大理想実現の拠り所として、これ以上にふさわしい地はない。こうした確信のもとに、教祖は土地の物色を始めたのである。
 後に教祖はつぎの歌を詠<よ>んでいる。

  創造の神は幾万年前よりぞ箱根熱海の美の具へせし