地上天国を造る
最後に一言いいたい事は、キリストは「天国は近づけり」と曰い、釈尊は「ミロクの世が来る」と予言されました。しかしこの二大聖者は、御自身が天国を造るとはいわれなかった。とおろが大胆不敵にも、それを私は作ると宣言するのであります。しかしこれは驚くには当らない。何となれば、キリストも釈尊も、実現性のない予言をする筈がないからで、もしそうだとしたら、予言ではなく、虚言であり、嘘吐きであります。全世界何億の信者に仰がれている二大聖者が、嘘吐きの筈はありますまい。又各宗教の開祖も、同様な事を曰われた人が幾人もありますから、全世界各宗の信者は、開祖を信ずると同様の意味において、私が現在実行しつつある天国建設の大経綸も、信ずべきが当然と思うのであります。これを一言にして言えば、各聖者の予言を如実に裏付けするのが、私の使命なのであります。
最後の審判とは
最後の審判とは、キリストによって発せられた言葉であるが、それはいかなる時期に、いかなる形によって表われるかという事で、キリストはそれについて全然言われなかったから、今以て謎とされているのである。特にクリスチャンは長い間この謎を解こうとしていたのはもちろんだが、今以て誰も解き得ないようである。何となれば、もし解き得る者が出たとしたら、その人はキリストと同じレベルの人か、又はそれ以上の人でなければならないからである。
一の世界
ところがここに残された厄介な問題がある。それは何千何万年も掛って、今日のごとき文化を作り上げたのであるから、これまでにはいかに多くの罪悪が行われたか分らない。罪悪とはもちろん霊体の汚穢で、それが溜り溜っている以上、このままでは新世界建設に障害となる。ちょうど家を建てる場合、木屑、鉋屑、その他種々の塵芥が散らばっているようなものであるから、ここにその清浄作用が行われなければならないが、これも又止むを得ないのである。キリストの最後の審判とはこれをいわれたのであろう。
各宗教祖との誓い
まず、各宗教の教祖や、昔から今日までの偉い人などの霊を、次々に呼び出しては問答をしてみたので、割合退屈しなかった訳である。その中で、今も覚えてるこれはと思うのをかいてみるが、一番度々来られたのは、大本教教祖出口直子刀自(とじ)であった。私が大本教へ入信した時は、最早故人となられ、御目には掛らなかったが、信者は教祖様と崇めて、尊ばれていたのはもちろんである。その霊が来られ、色々お話をされたが、仲々優しい温味のある方で、慈母に逢ったように懐しい気がした。丹波言葉であったが、その中でこういう事をいわれた。「あんたも随分御苦労なされたが今にドエライ事になるよって、今少しの辛抱やで、頼んますよ、それで今の大本は、ホンの口過同様な事をやっているのやで、いずれ時節が来たら助けてやってくれれなはれ」とのお言葉なので、私は「承知しましたから御心配なさらぬように、出来るだけ御面倒みて上げますから」と申したのである。又、出口王仁三郎先生も憑られたが、これは一寸発表し難い話が多いからかかないが、只先生の霊が八衢(やちまた)に居られた為、私は第三天国に御救いして上げたので非常に喜ばれた。それから天理教教祖、中山ミキ刀自(とじ)も憑られたが、刀自いはく「貴方が世にお出ましになった事は、非常に嬉しく、これから天理教信者にも私からよく判らせるようにするから、よろしく頼みます」という御言葉であった。その外色々な方面の偉い人達を呼んだが、その中で特に参考となり、興味ある人達をかいてみるが、彼の日蓮上人が憑られ、数年前私が救って上げた事を、非常に喜んでいわれるには「自分は長い間〇〇に墜ちて、非常に苦しんでいたところ、お蔭で楽な地位に上げられたのでまことに有難い。これから日蓮宗の信者も分るようにするから、救ってお貰いしたい。よしく御頼み申す」と言われた。次に明治天皇を御呼びしたが、天皇の御話では「代々の天皇の中で、まだ霊界で苦しまれている者が多数あるから、是非救って貰いたい」との事で、私も充分御助けするから御安心願うと申したので、天皇は非常に喜ばれた。それからキリストを呼んだが、もはや三度生れ変って、今はイタリーの〇〇〇〇との事であった。釈尊もヤハリ三度生れ代って、今はインドの〇〇〇に生れ変っているとの事であった。面白かったのはスターリンの生霊を呼んで、共産主義の間違っている点を色々説いたが、彼は実に頑固で三回呼んでやったが、とうとう承知しなかったので、私も諦めてしまった。それから私の当時の事件についての原因、その他の事を〇神様に訊いてみたところ、もちろん大きな邪神の計画で、沢山の龍神が大勢の人々を躍らしているとの事だが、これは今は詳しくかく事は出来ないが、ヤハリ神様の大経綸の一つで深い意味のある事が分った。これは出所後私は少し発表したが、詳しい点は、いずれ時期が来たら発表するつもりである。
病原と浄霊の原理
只現在その神様の御名前を詳しく曰う訳にはゆかないが、いずれ時期が来たら発表するつもりである。しかし釈尊、キリストをはじめ幾多の聖者の予言を、よく考えてみればおよその見当がつく訳である。
私は真理を書く
私は十数年前から原稿を書き始めたのであるが、もちろん信仰を中心にしたものばかりで、今までの宗教の開祖などと異って、固苦しい事や、野暮くたい事など一切抜きにして、いかなる階級の人にも、解り易いようにと、意を用いて来たのである。しかしここに具合の悪い事もある。というのは例えば釈尊の八万四千の経文にしろ、キリストのバイブル、真言の密教、親鸞の歎異抄、日蓮の御文章、天理教祖の御神楽歌、大本教祖の御筆先等々にしても、どれもこれも一種の悪く言えば宗教臭味があり、よく言えば何かしら神秘的で、判るような判らないようなところに、反って魅力があるのではないかとも思えるのである。と言って解釈が難しいから、その人次第で色々にとれるから、どうしても分派が出来易い。何よりもその宗教が大であればある程分裂し、相剋し合う例は歴史がよく示している。そんな訳で信徒はその信仰の真髄を掴み得ない為、迷いが生じ易く、真の安心立命は得難いのである。
ところがいかなる宗教でも、その拝む的といえば、エホバ、ジュース、ロゴス、天帝、無極、天照大神、国常立尊、キリスト、釈迦、阿弥陀、観音等が主な神仏で、その他何々の尊、同如来、同大師等々色々の御名はあるが、もちろん立派な神仏には違いはない。中には稲荷や天狗、龍神など、低俗な信仰は別として、その根本に遡れば、独一真神すなわち主神一柱で在す事は論のないどころであるが、今日までどの宗教でも、自分の方が一番最高で立派な宗教なりとし、排他的観念も多分にあるから、統一などは出来よう訳がないのである。そうかといって最後の理想だけはどの宗教も同一である。すなわちこれの世の天国、極楽世界、理想世界の実現であり、人類全体の幸福であって、これに反対である宗教は一つもあるまいが、それならその様な世界の実現はどうすればいいかというと、すなわち世界を打って一丸とする帰一的宗教が生れなければならないのである。それこそ万人挙って信じ得られる程の、超宗教的偉大なものでなくてはならない。それが我メシヤ教であるとは云わないが、そういう世界を作り得る手段、方法、すなわち計画設計はどうすればいいか、それを教えるのが本教の使命であって、その認識者が各民族の智識人間に増えるに従って、目標に向って一歩一歩前進するのである。これを一言にしていえば、真理の具現であり、これによって一切の誤謬は明かになり、是正され、明朗清純な光明世界が実現するのである。もちろんん人間から悪は追放され、虐げられていた善が興隆し、人類は幸福を楽しむようになるのである。従ってまず真理をあまねく全人類に知らせる事こそ根本である。というと人は言うであろう。昔から多くの偉人が、剰す処なく真理を説いて来たではないか。故に今更其必要はないと言うかも知れないが、実は之が問題である。というのはもし今までに真理を開示されていたとしたら、それが具体的に表われ、既に天国世界は実現されているか、そうでないまでもそれに近づきつつあらねばならない筈であるが、そういう気振りすら見えないのである。なるほど物質的には確かに天国に近づきつつあるといってもいいが、他の一面すなわち精神界に至っては、何等の進展もなく、むしろ反対でさえある。これでは真に天国世界は何時になったら実現するか、見当もつかないのである。としたらその原因こそ、今まで信じて来た真理そのものは、実は真理ではなかった事に気付くであろう。
舌に代えて
ところがその力が今度現われたのであります。それが我救世教であるというと知らない人は恐ろしい大ほらふきと思うでありましょうが、事実はあくまで事実であって、私はその力を神様から与えられたのであります。しかしこの事は今初めて私が唱えるのではない。二千年以上も前に已にキリストも釈迦も立派に予言されております。では何故私がその様な大任を神様から荷(にな)わせられたかというと、前にも述べたごとく現代文明は極度に行き詰まり、世界は滅亡の寸前にまで来ているからでキリストの言われた世の終りの姿であります。しかもこれは空理空論ではなく目前に迫っている現実であって、お互は今や世界的破局に直面しているといってもいいでしょう。
九分九厘と一厘
この様な訳で、人類は原始時代から今日に到るまで、善と悪が相対峙<あいたいじ>しつつ、現在まで何万何十万年に亘って来たのであるが、もちろんその期間邪神の力の方が強い為、ともすれば正神の方が圧迫され勝ちであったが結局において悪の方が敗北し、善の方が勝ったのは歴史がよく証明している。それはもし邪神の方が勝ったとしたら、世界は崩壊連れ、今日見るがごとき世界は、あり得なかった筈であるからで、それというのも今日までは時が悪にある程度味方していたので、つまり夜の世界であったからである。もちろん夜は暗黒そのもので、悪を制御する光が足りない以上、止むを得なかったのである。右のごとくこれまでの世界は悪でも目的を達せられ、相当期間持続されたので、これを見た人間は悪で成功する方が早道と錯覚してしまうと共にその追随者も出来るという訳で、とうとうとして一般が悪に感染し、処世の常識とさえなってしまったのである これは歴史をみれば判るごとく、悪によって一時は成功したように見えても、いずれは必ず失敗するが、それに大部分は無頓着であったのである。従って歴史とは悪による成功と、悪による失敗との交互連続の記録でしかないと言えよう。右のように夜の時代は悪の力が強い為、その犠牲となった善者も少なくなかった。特にそれが宗教家に多く、最大な犠牲者としては、彼のキリストであった。私といえどももし共時代に生れたとしたら、いかなる苦難に遭ったかも分らないが、いつも言う通り今や夜が終り、黎明期に一歩入った現在であるから軽く済み、予定通りの進展を遂げつつあるのである。
ここで別の意味からみれば、神の力は十全であり、邪神の力は九分九厘であるから、神の方が一厘勝<まさ>っており、この一厘の力を以て掌を反すので、この力こそ如意宝珠であるから、私が常にいうごとく、現代文化は九分九厘までで切替えとなり、その時がキリストの言われた世の終りであるという訳である。従って、この時こそ霊界においては仰天動地の一大異変が起るのは必然で、この事を信じ得る人にして、永遠なる幸福者となるのである。
ここに至って、夜の帳<とばり>は切って落され、赫々<かくかく>たる太陽が現われるので、その黎明期こそ今である。キリストの言われた信ずる者は幸いなりとしたら、信ぜざる者は、滅亡の運命となるより致し方ないであろう。
絶対力
次に今度は実際面の事から解いてみよう。これを最も大きな意味から言えば世界の二大思想である。言うまでもなく、唯心思想と唯物思想であら、精神主義と物質主義であり、霊的文化と体的文化である。これを宗教的にみると一番判り易いからそうしてみるが、右の表われが世界の二大宗教としての、彼の仏教と基督<キリスト>教である。前者は東洋的経であり、霊であるに反し、後者は西洋的経であり体であるのは、屡々<しばしば>私が言う通りである。ところが今までの世界は、この経と緯とが別々になっていた為、本当の力が出なかった。その何よりの証拠は、今以て世界的和合統一が出来なかった為、人類は救われなかったのである。
その事についてはまず歴史を見てみよう。原始時代を経てようやく人間の生活らしいものが生れてから、最初は太陽崇拝、自然物崇拝、人工物崇拝というようになってから、遂に人間崇拝とまでなったので、その頃から原始宗教が各地に現われ始めたのである。それからようやく初期文化時代となって生れたのが仏教、回々<フイフイ>教、次いでキリスト教であるが、前二者はもちろん根本は経であるから、真の力が出ないと共に、キリスト教も根本は緯であったから、ヤハリ力が出なかった。という訳で結果としては前者は経に片寄り、失敗とはゆかないまでも、仏教はようやく日本にだけ形を残しているに過ぎないと共に、回々教もアジアの一部に伝統的に固まっているのみである。又後者のキリスト教は緯であるから、世界の大部分に拡ってはいるが、目標の天国は実現しないどころか、地獄が多分に残っている現在としたら、これも失敗であると言えよう。
ここで私という者の使命を説明してみれば、右の意味が一層ハッキリ分ると思う。今私の行<や>りつつある仕事の中心としては浄霊の業である。これは信者は知りすぎている位であるが、私がかいた一枚の紙を御守として懐へ入れるや、医師の見離した重難病でも、全治させ得る力が与えられる。そうしてこの御守は、今日まで何十万枚出したか分らない程で、しかし何程増えてもその力には変りはない。しかも病気ばかりではなく、精神が改善され、人格が高まり、又危機一髪の危難が救われる等々、日々数限りのない奇蹟によって、歓喜の生活者が増えつつある不思議さで、この力こそ御守から発揮される力であって、私は敢て誇るつもりはないが、事実はあくまで事実であってみれば発表しても差支えあるまい。この様な絶大な力を行使した者は歴史上一人もない事は、今更言うまでもあるまい。これ等数限りない奇蹟は御蔭話中に載っているから、何等疑うところはあるまい。としたらこの力こそ経と緯を結んで生れた力であって、この力こそ仏教的にいえば観音力であり、妙智力であり、キリスト教的にいえばメシヤの力である。そうして右の力は今は霊的が主であるが、いずれは体的力の発現となるであろうから、その暁<あかつき>神の目標である東洋の精神文化と、西洋の物質文化が結ばれた英文化が生れるのはもちろんで、それが神蕃であり、全く世界肇<はじま>って以来の救世的大事業遂行となるのである。
時局雑感
以上は常識的、推理的に見たままを記<か>いたのであるが、我々宗教人としては、一般の観方とは根本的に異うのである。というのは、神の実在を信じている以上、いかなる問題でも正が勝ち邪が負けるのは当然な帰結であるから、今米とソとを比較してみる時、勝敗は言わずと知れている事で、信者はよく分るであろう。したがって今後いかなる事態となっても、我々は些かの心配も要らないのである。しかもその結果我々の理想とする地上天国、ミロク世界の出現が促進されるとしたら、信ずる者は幸いなりのキリストの聖言も、この事でなくて何であろう。