宗教と分派
宗教には種々の派がある。例えばキリスト教においてもカトリック、プロテスタント等を重なるものとし、新旧種々の派がある。仏教においても、日本だけでさえ真宗、浄土、天台、真言、禅、日蓮等を重なるものとし、その一派が各派に分れており、現在五十八派に分れている。神道においても神社神道を別とし、教派神道においては大社、御嶽、扶桑(ふそう)、禊(みそぎ)、天理、金光等を重なるものとし、十三派あるにみても明かである。
以上のように何派にも分離するという事は理屈に合わないと思うが、私はこう観るのである。すなわちその原因は教典にあるのではないか、というのは聖書にしても仏典にしてもはなはだ矛盾難解な点が多く、その解釈に当っては人により区々の見解に分れるので、勢い種々の分派が出来たのであろう。もっとも教派神道はキリスト教、仏教のごとく大教祖がなく、古事記、日本書紀等の古典を基本としたり、神憑的教義や、教祖の教等によって成ったものである。以上のごとく根本は同じ宗教でありながら、各派に分離する結果、ともすれば争いなどを生じ勝ちになるので、宗教本来の使命たる人類愛的教化に悪影響を及ぼす事はもちろんで遺憾の至りである。全くその原因が前述のごとく教典の難解なるが為である事は議論の余地はない。もっとも難解である所に、反って有難味があるという理屈も成立たない事もないが、遍く人類を救うべき意味から言えば、万人の最も理解しやすくするのが本当ではないかと思うのである。
地上天国
地上天国という言葉は、何たる美わしい響であろう。この言葉ほど光明と希望を与えるものはあるまい。しかるに多くの者は、地上天国などという事は実現の可能性のない夢でしかないと想うであろうが、私は必ずその実現を確信、否実現に近づきつつある事を認識するのである。ナザレの聖者キリストが「汝等悔改めよ、天国は近づけり」と曰った一大獅子吼(ししく)は、何の為であろうかを深く考えてみなくてはならない。その教が全世界の大半を教化し今日のごとく大を成したところの、立教の主たるキリストが、確実性のない空言をされ給うはずがないと私は思うのである。しからば地上天国とはいかなるものであろうかという事は何人も知り度いところであろう。私は今それを想像して書いてみよう。
観音教団とは何か
地上天国とは病貧争絶無の世界、全く人類理想の世界を言うにある事は、前項に詳説した通りである。かの釈尊が唱えた五六七の世も、キリストが予言せし「天国は近づけり」という事も、日蓮の叫ばれた義農の世も、天理教の理想とせる「一列揃って甘露台の世」も、われらの曰う「地上天国」と同様の意味である。ただ異るところは「時」の問題であるが、右の諸宗祖は「時」を知らせなかった。しかるにその時期が非常に近づきつつある事を、私は覚り得たのである。時が近づきつつあるという事は何を意味するか、それは釈尊の唱えた仏滅であり、法滅尽であり、キリストの世の終り、又は最後の審判の時が切迫した事を想わせるのである。このままにして地上天国が来るとすれば、人類はまことに幸福であるが、新しき理想世界が建設されるというについては、その前に旧世界の清算がなくてはならない訳である。ちょうど新しき家を建てんとするには旧き家を破壊し、土地を清浄化されなくてはならない。もちろん旧き家にも役立つものは相当あろうから、それは残さるるであろう。その取捨選択は神がなし給う事はもちろんである。ゆえに人間は残されるもの、すなわち新世界に役立つ者とならなければならない。それによって大いなる切替時をやすく越えらるる事でいわゆる神の試験にパスするのである。その唯一つの方法としての信仰である事を次に説明してみよう。
東洋と西洋
右のごとく、今日までは東洋は経の線を固持し、西洋は緯の線に満足していた。しかしながらいずれの日かこの経緯の線が結んで十字の形にならなければならない。というのは東洋の精神文明と西洋の物質文明との結合である。この結ぶ事によって、世界人類は初めて理想の文化時代に入るのである。キリスト教の十字架はそれの暗示であり、仏教の卍も同様の意味であろう。
プロテスタントとカトリック
私はキリスト教について少しく話したい事がある。それはプロテスタントの無教会主義と、カトリックの教会主義との意見の相違である。無教会主義とは読んで字のごとく「教会を必要としない、聖書一本で進むべきである」というに対し、教会主義は「キリスト昇天後教会が先に出来、聖書は後から出版されたものであるから、教会は重要である」と言うのである。これについていずれが是か非か、私の見解を述べさしてもらいたいと思う。この問題に対しいずれにも理由があるが、私は霊的方面から解釈してみよう。
霊界においては神仏の霊は素より、人霊も、動物霊も、すべてなんらかの物質に、神懸り、又は憑依するものである。例えばキリストは十字架へ、諸神諸仏は文字、御鏡、絵画、彫像等へ懸り給い、人霊は多く文字へ憑依され、動物霊は人体又は文字、稲荷なら狐の形状したもの、御札等へ、龍神は文字又は蛇形のもの、石塊等である。右の場合高級の神霊仏霊は、その作者の人格に関係するので、昔から名僧智識や名人等の絵画彫刻は貴重な物とされた訳である。
天国の福音 序文
そもそも全人類が要望する最大にして最後の目標は何であるか、それは一言にしていえば幸福そのものであろう。これに対し否定する者は一人もあるまい。しかしながら幸福を獲んとする者も、すでに幸福を得てそれ以上を持続せんと欲する者も切離す事の出来ないものは、何といっても「身体の健康」であろう。ナザレの聖者基督<キリスト>は曰った。「爾<なんじ>、世界を得るとも生命を失わば何の益かあらん」と、宜<むべ>なるかなである。
霊波と霊衣
又こういう例がある。それはアメリカの話だが彼の有名な大富豪初代ロックフェラー氏が未だ商店の小僧であった時、人は善事を行わなければならないとしてキリスト教会へ献金したのである。最初は一週間に五銭であったが、収入の増すに従い十銭となり五拾銭となり何千何万円となり、終にはかの有名なロックフェラー研究所のごときものを創設したのである。右の献金の額を最初手帳の裏面に記入したので、その手帳は同家の家宝となっているそうである。又アメリカ最大のベツレヘム製鋼所を創設したかのアンドリュー・カーネギー氏は、死に際会し、氏が平素から唱えた持論を決行した。それは全財産数億ドルを社会公共の為献金し、後継者たる子息には百万ドルの資産と大学教育とを与えたに過ぎなかったとの事である。又ミュンスターベルヒは大著『アメリカ民』で美田を買わぬアメリカ富豪の気質を絶讃している。例えば一九〇三年に大学、図書館、研究所などの寄付金だけで約一千万ドル、秘密の寄付はその数倍にのぼるという。また前大戦の直後、カーネギー氏は「国際平和財団」に巨額を寄付した。その一部でドイツの学者や学界は蘇った。リープマン教授等が完成した戦争と犯罪に関する世界最初の尨大<ぼうだい>な研究叢書の公刊もかれの寄付金でやれた仕事だ。この研究だけでも、世界の幸福にどれほど寄与しているか測りしれないという。私はこれ等の事実を考える時、アメリカ繁栄の由って来る所を知るのである。それに引換え日本の財閥のあまりに利己的であった事が、今日の没落を招いたであろう事を想い、決して偶然ならざるを知るのである。
神仏はあるか
以上のような私の思想は国家観にも及び、古き寺院の多いイタリアなどの国は衰退しつつあるに反しアメリカのごとき寺院の少い国家は非常な発展をするという現実であるから、神社仏閣等は国家発展の障碍物<しょうがいぶつ>とさえ思われたのである。しかるにその当時私は毎月救世軍へ若干の寄付をしていた為、時々牧師が訪ねてきてはキリスト教を奨めた。牧師は「救世軍へ寄付する方は大抵クリスチャンであるが、貴方はクリスチャンでもないのにいかなる動機からであるか」と質くのである。そこで私は「救世軍は出獄者を悔改めさせ、悪人を善人にする。したがって救世軍が無かったとしたら、出獄者の誰かが私の家へ盗みに入ったかも知れない。しかるにその災難を救世軍が未然に防いでくれたとしたら、それに感謝し、その事業を援けるべきが至当ではないか」と説明したのである。未だその外にもこれに似たような事は種々あったが兎もあれ私は、善行はしたいが神仏は信じないというのがその頃の心境であった。したがっていかに見えざるものは信ずべからずという信念の強さが分かるであろう。
幽霊はあるか
昔からたまたま幽霊を見る人があるが、これ等多くは死後短時日を経た霊である。新しい死霊は霊細胞が濃度であるから人の眼に映ずるのである。かのキリストが復活昇天した姿を拝したものは相当あったという事は不思議ではなく、有り得べきはずである。ただキリストは天に向って上昇したという事は高級霊であるからである。そうして死霊は年月を経るに従い浄化され稀薄になるので、眼に映じ難くなる。又幽霊は、針のような穴からでも出入自在である。それは肉体なる邪魔物が無いからで、かような点だけでみる時、自由主義者の理想境のように想われるがそうはゆかない。というのは霊界は儼然たる法則があって、自由が制限されるからである。又霊の面貌について一言述べるが、幽霊は絵にあるごとく死の刹那の形相であるが、これは時日を経ないからで、時日を経るに従って緩ろに変化するのである。それは想念の通りになる。たとえば消極的、悲観的、孤独的の人は淋しく痩せ衰え、孤影悄然たる姿であり、鬼畜のごとき想念の持主は、鬼のごとく、悪魔的の人は悪魔の形相となり、醜悪なる想念は醜悪なる面貌となり、善美なる心の持主はその通りの容貌となるのである。現世においては肉体という外殻によって偽装が出来るが、霊界は総てが赤裸々に表われるのである。そうして表われるまでには大体一ケ年以内とされている。ある有名な宗教家の著書にこういう事が書いてあった。それは「人間は死後霊が滅消してしまい、霊の存続や霊界などあるものではない。何故なれば、もしそうでありとすれば、昔から死んだ人の数は何億に上るか分らないから、霊界は満員になっていなければならない。」と言うのである。
霊界の審判
人間一度霊界に入るや、大多数は神道で唱うる中有界一名八衢<やちまた>、仏教でいう六道の辻、キリスト教でいう精霊界に往くのである。しかし、ここに注意すべきは、東洋の霊界は大体立体的で、特に日本の霊界は最も立体的であり、西洋の霊界は大体平面的である。日本の社会が特に階級的段階の多い事もそれが為であり、西洋が非階級的で平等なのもそれが為である。そうして私が研究したのは日本の霊界であるから、そのつもりで読まれたいのである。