八人目の聖者=光・浄霊による救い
それからこの間ちょっと話した、若い婦人で、キリストが憑ったという話しをしましたが、今までの事を書いて来いと言ったものですから、書いて来たので、それを読ませます。
この中に、いろいろな意味がありますが、私か一番感じたのは、キリストの言う事が、おそろしくくどく、丁度バイブル的に言われているのが面白いです。バイブルは、弟子が書いたのですが、キリストの不断のお説教や何かが、こういったような言い方だとみえるのです。
ですから、キリストも″自分は神だ″とは言わなかったのです。いよいよ待望の救世主が現れたと言ったのです。ところが実は救世主ではないのです。そこでかえって、それを誤るといけないから、十字架にかかった、という意味もあるのです。そこでこれは、人間でも神様でもそうですが、特に神様は厳正ですから、その位に、ピッタリしないと苦しいのです。
キリストが、こういうふうに歌ってくれと、歌詞を作ったわけです。なかなか良く出来てます。神様を讃える気持ちが、実によく出てます。これを歌詞にしようと思ってます。まあ、私の方で助かったわけです。
それから、右に関することは、この間、京都の或る婦人が、やはりキリストや、その他いろいろな人のことについて出たのと、同じようなのです。それが東京と京都と、こんなに離れて、別に話し合った事もない知らない人が、同じようにチャンと合うのですから、これらも面白いと思います。
というのは、今までの人間で、神様の光というものを持った人はなかったのです。そこで、ヨハネなどが、二千七百五十年間地獄に居られたわけです。それからキリストでさえも、そういった人でも、つまり救われなかったのです。
つまり罪穢れにより・・・・しかし、ああいう神様が、罪穢れというのはおかしいですが、大体キリストが、十字架にかかったというのも、前の世に、非常に大きな罪をした、その犠牲になっての、贖罪です。そこで、十字架にかかったわけなのです。それだけでは、すっかり救われないのです。そこで、長い間苦しんでいたのが、光に会うと、その罪である曇りが溶け、消えるのです。それで救われるのです。だから、とても光を憧れているのです。
だから、キリストや、マホメットなども、救われたという事は、先に述べた婦人を、浄霊している内に、キリストや何かが、助かってしまったわけです。
悪を制御する力=エホバの光
それは何かというと、最近、キリスト、釈迦、マホメットという、偉い人達がみんな、私に″救ってくれ″と、言って来ているのです。
その一例をあげますと、最近キリストが、ある若い婦人に憑って来て、この間、私は浄霊をしてやったのですが、浄霊するかしない内に、涙を潸然(さんぜん)と流して、実に、感謝に堪えない態度です。長い間、霊界で非常に苦しんだのです。しかし″今度はお救いいただいて有難い、嬉しくて嬉しくてしようがない″と言って、シャクリあげて泣くのです。しばらく話ができないので、その間待っていたのです。
そういう事が、二度ありましたが、聞いてみますと、キリストが憑った時には、やはり磔(はりつけ)の苦しみがあって、そうして、よくキリストの磔の像で、こういうように、首を曲げて居りますが、やっぱり首を曲げるのだそうです。どうも首を何かで押えられたような、非常に苦しいそうです。それは、つまり磔に遭ったから苦しいのです。つまり、その苦しみが、すっかり取れないのです。取れないという事は、何故かというと、光がないからです。それで、この婦人は、去年頭がおかしくなって、私か治してやったのです。それでまだ固まりがあるので、時々来いという事で、時々やってやったのです。すると、何時の間にかキリストがそれに憑って、何時の間にか良くなったというのです。
最近はキリストの弟子で、なかなか偉い人で、ヤコブというのが憑って来ました。
そういうわけで、死んだ霊、生きた霊、両方とも、救世教の神様と言うとおかしいですが、これはキリスト教の「エホバ」です。
それから「東方の光」と言う人もありますが、それによって、みんなきれいに掃除をされて、そうして清浄で働くわけです。これは余程偉い人は、みんな知っていまして、キリストの「天国」とか、いろいろと予言されたのを、待っているのです。いよいよ、待っていた、本当の、世界を天国にするという、事業が始まったというので、我勝ちに、やらしてもらいたいとて、集まりつつあるのが、今です。だからして、不思議なような事で、不思議はないのです。
主神の働き=超宗教=浄霊力
近頃あらゆる神、仏が、非常に喜んで、キリスト、マホメット、釈迦、ヨハネと、いろいろ神様が出て来ます。
ここに来るちょっと前にも、いつもの婦人に、マリヤと、キリストが出ましたが、実に喜んで、口から出る言葉の、あらゆる讃辞を呈しているのです。実に、その喜びの情というものが溢れているのです。他のあらゆる神、仏も。みんなそういうふうです。
キリストでさえ、今まで随分苦しんだのです。キリストが憑ると、首を曲げるのですが、十字架の絵にあるように、首を曲げるのです。それはその時に何かで縛られたか、あるいは死んで下に落ちて、その上に何か物がのったとかしたものです。つらいそうです。そして十字架の磔になった時の痛みはほとんど取れたが、まだ首が曲がっているのは、少しあるようです。最初は大分痛かったようですが、それも取れて、キリストが非常に有難がっているのです。マリヤとしても、自分の息子ですから、伜が助けられたというので、非常に喜んでいます。
今まで、何億という人類が拝んで来たキリスト、釈迦を、私か助けたというのですから、″そんな人間が現われる事はない、頭がどうかしている″と言うかもしれません。あなた方は、不断から知っているでしょうが、それを″これだ″というところまでゆけば、″魂がすっかり固まった″のですから、そうすると、それによって、その人の、力が強くなるのです。
明主様の御歌より
キリストも エホバもゴッドもメシヤ ジュウス みな観音の西の御名なる
万人の 再臨待ちしキリストも メシヤもみろくも同じとぞ思う
キリストも 釈迦もメシヤも観音も 人の姿の神にぞありけり
キリストの 再臨救世主の降臨も 弥勒下生も同じ意昧なる
キリストも 釈迦もメシヤの生れまさむ 時来る迄の露払いなる
キリストや 釈迦マホメットの待ち侘し メシヤの神は天降りましける
キリストは 贖ひ主と生れ給ひ メシヤは救ひの主と生るるも
キリストの 再臨の謎解けぬらん メシヤの出ずる時の来ぬれば
キリストは 救世主なりけりいやはての 世に現れまする仕組なりける
長き世を 待たれしメシヤもキリストも ミロクも今し天降るなり
『主の字』
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『プロテスタントとカトリック』
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″教主中心″は惟神の流れ
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奇蹟
宗教的奇蹟を迷信視するジャーナリストにも困ったものであるが、無理のない点もある。なるほど世間には低劣極まる宗教や、神憑的怪げな信仰も相当あるにはあり、社会に及ぼす害毒も少なくないので、これ等の弊害を防止すべく迷信を警告するに対してはわれらも賛意を惜まないが、但だ玉石混淆的に、新興宗教でさえあれば一応は迷信視するという態度は感心出来ないのである。科学のメスによっての検討もせず、論理的に研究する事もなく、独断的に否定し去るという事は、文明に背反する態度ではあるまいか。正しい信仰は事実において人類社会の福祉を増進する大いなる役目を果しつつある事を認識されると共に反省を促したいのである。もし奇蹟が迷信であるとすればかのキリスト教も迷信という事になろう。何となればキリストが水を葡萄酒に化し、数十人分の量がたちどころに甕(かめ)に満ちたという事や、盲(めくら)の眼が開き、跛行(びっこ)者の足が立ったりする等の話は立派な奇蹟である。
迷信邪教
今日新聞雑誌ラジオ等、盛んに迷信邪教に瞞されるなという事を警告しているが、なるほど迷信邪教は昔から断えず輩出しているばかりか、今日は最も甚しいようである。しかし全部が全部迷信邪教とはいわれまい。その中の幾分かは今日立派な宗教として残っているからである。実をいえば、今日世界最大の宗教として隆盛を謳われているかのキリスト教にしてもそうである。その立教者であるイエス・キリストが、生存中は迷信邪教として遇され、ついにあれほどの刑罰を受ける事になったのを見ても肯けるのである。茨の冠を被せられ刑場へ曳かれてゆくその傷ましき御姿に対し、それを阻止すべき一人の義人も表われなかったという事実にみても、いかに時人から迷信邪教視せられていたかが察知せらるるのである。
大乗と小乗
次に私は宗教における大乗小乗を説いてみよう。元来仏教は小乗であり、キリスト教は大乗である。仏教は火であり、キリスト教は水である。火は経に燃え、水は緯に流れる。ゆえに仏教は狭く深く、孤立的で緯の拡がりがない。反対にキリスト教は大乗であるから、水の流溢(りゅういつ)するごとく世界の隅々までも教線が拡がるのである。面白い事には小乗である仏教の中にも大乗小乗の差別がある。すなわち南無阿弥陀仏は大乗であり、陰であるが、南無妙法蓮華経は小乗であり、陽である。大乗は他力であり、小乗は自力である。彼の阿弥陀教信者が「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる」という他力本願に対し、小乗である法華経は「妙法蓮華経を称えるのみではいけない。よろしく難行苦行をすべきである。」という事になっている。このように経と緯と別々になっていたのが今日までの宗教であったが、最後は経緯を結ぶ、すなわち十字時型とならなければならない。この意味において地所位に応じ経ともなり、緯ともなるというように、千変万化、応現自在の活動こそ真理であって、この十字型の活動が観音行の本義である。昔から観世音菩薩は男に非ず女に非ず、男であり女であるという事や、聖観音が御本体で、千手、十一面、如意輪(にょいりん)、准胝(じゅんてい)、不空羂索(ふくうけんさく)、馬頭の六観音と化現し、それが分れて三十三相に化現し給うという事や、観自在菩薩、無尽意菩薩(むじんいぼさつ)、施無畏菩薩(せむいぼさつ)、無碍光如来、光明如来、普光山王如来、最勝妙如来、その他数々の御名があり、特に応身弥勒と化現し給う事などをもってみても、その御性格はほぼ察知し得られるのである。因みに阿弥陀如来は法身弥勒であり、釈迦如来は報身弥勒であり、観世音菩薩の応身弥勒の御三体を、三尊の弥陀と称え奉るのである。又日の弥勒が観音であり、月の弥勒が阿弥陀であり、地の弥勒が釈迦であるともいえるのである。ここで注意すべきは、観世音菩薩の御本体は天照大御神の顕現という説があるが、これは誤りで天照大御神は大日如来と顕現し給うのである。