参拝行

 創建当時法相宗であった日本寺は、その後、天台宗、真言宗と転宗の歴史を経て、江戸時代には曹洞宗となり、教祖が訪れた昭和初期には同宗の関東霊場となっていた。高名な禅僧、原田祖岳がこの寺の管理にあたり、住職をしていたのは第一九世・田中常説であった。ところが、この田中和尚と、信者の清水清太郎が奇しくも昵懇〈じつこん〉の間柄であったことから、教祖は清水に、六月に日本寺詣でをするという計画で準備を命じたのである。

 一泊二日の日程は、まず六月一四日夜の日本寺宿泊、翌朝、鋸山山頂においてご来光を仰ぎ、下山後、朝食を済ませてから歌会を開催するという計画であった。随行の希望者を募ったところ、男子一八名、女子八名の二六名に写真の撮影技師二名を加え、計二八名となった。当時教祖を指導者と仰ぐ信者は四〇名ほどであったので、参加者は過半数を占めたわけである。六月一〇日の『日記』にはつぎの歌が記されている。

  十五日日本寺行きの件集まりし人に清水は相談なしける

 六月一四日は、梅雨どきにもかかわらず、幸いに朝からよい天気であった。教祖は妻・よ志を伴って、大森の松風荘から集合場所の両国駅へ向かった。随行者を合わせた総勢三〇名は予定通り午後四時発の汽車で出発したのである。車中では、教祖が酒脱な諧謔〈かいぎやく〉で人々を笑わせるので、和やかに話がはずみ、窓外の景色を見る暇もないうちに、はや保田駅へ到着した。駅からハイヤーに分乗して、山麓の茶屋へ。そこからは用意された提燈を頼りに石段を登った。鋸山の中腹にある日本寺へ着いたのは夜もふけた十時半ごろであった。

  提燈のかそけき光にとぼとぼと石の階段やうやく登りぬ

  鋸山麓すぐればあくがれの日本寺の門いかめしくたてる

 天津日の神にゆかりのありぬらむ名もひむがしの日の本の寺

 教祖は、露天風呂同様の簡素な藁葺の浴場で汗を流したあと、一同とともに遅い食事をとり、食後住職と歓談することしばし、寝床にはいったのは午前零時ごろであった。

 藁葺のわびしくも建つ風呂につかり汗を流してほと甦がへる

 山寺の畳ひろびろし夜の眼にも古〈ふ〉りしけはひの床しかりける

 禅寺の夜は深々と更けわたり語り合ひつつ果つべくもなし

 随行者一同は、本堂において仮眠をとったが、教祖夫妻は本堂の上手の建物に案内され、そこで就寝した。

 あけて昭和六年(一九三一年)六月一五日・午前三時、教祖は、ゆっくり眠る暇もなく真っ先に起床、やがて一同そろって提燈を片手に持つと、夜露にぬれた暗い道を山頂めざし出発した。

  足曳の山路の闇をかきわけて提燈の灯をたよりに登りぬ

 住職が四年の歳月をかけて築いたという石段を登ること約一時間、頂上に着くころ、六月の朝は海上はるかかなたの水平線のあたりから空が白み始めた。幸い、好天気に恵まれ、朝靄〈もや〉の中からしだいに姿を現わしてくる房総の海や、周囲の山々、さらに関東一〇州を一覧できる雄大な光景は、その名の通り、えも言われぬ美しさであった。

  雲いづる天津日光〈あまつひかげ〉を拝〈おろが〉みて一行謹しみ祝詞奏しぬ

 黎明〈れいめい〉を破って昇る太陽に向かって、教祖を先達とした一同は声高らかに『天津祝詞』を奏上した。その時の荘厳神秘な感はたとえようもなく、みな感動のうちに、謹んで祝詞を奉唱したのである。この時教祖は、ある不思議な霊感を受けたのであるが、「ある神秘なことが行なわれた。」と誰に言うともなくつぶやき、何ごとか胸に深く秘める様子であった。

 山頂をあとに、下山の途についた一行は、道すがら、すっかり明るくなった朝の光の中で、異様な姿の仏像を見た。登る時は暗かったので、判然としなかったが、それは首のない石仏の群像であった。教祖はこれを見て、山頂での秘事とも合わせて、今や仏界に重大な変化が起こりつつあるということを、深く覚ったのであった。

  心なき人の多きも立ち並ぶ羅漢の半数首の無きかな

 ふたたび日本寺に帰り、朝食をとってから、本堂を背景に住職もはいって全員の記念写真を撮り、本堂から少し下った呑海楼の前で教祖夫妻の写真を撮った。

 呑海楼というのは、本堂の右下の平坦な所に建てられた仏閣である。これは江戸末期の天明八年(一七八八年)江戸の商人・大口屋平兵衛なる者が寄進した建物である。周囲には珍しい松や、奇岩怪石をもって趣のある庭園が造られている。また、ここからは安房の山々を一望に見渡すことができる、非常に眺望のよい場所である。

 カメラマンが二名も同行しているのに、鋸山紀行の写真はこの二枚しかない。というのは、この辺一帯は終戦まで要塞地帯であったので、撮影が禁止され、ようやく許可を受けて撮影できたのが、右の二枚であったからである。

 記念撮影のあと、日程の通り、呑海楼の前庭で歌会が開かれた。一同は三三五五、芝生に腰を降ろし、すばらしい景色を楽しみながら歌の想を練った。教祖は、

  風薫る青葉の山に安房の海眺めし旅の忘れがたきも

と詠み、よ志は、前夜登った山道を思い浮かべてつぎのような歌を作った。

  目の下に町の燈火かがよふを振りさけ見つつ登る山道

 美しい自然に包まれて、作歌に興ずること二時間余、再訪を期して日本寺を辞した。

 保田駅から乗車して南へ四つ目の那古船形駅で下車、那古観音、船形観音に参詣し、慌しくふたたび車中の人となって東京へ帰ったのである。

 同行した井上茂登吉は、
 「われわれは神事の内奥は知るよしもなかったが、いまだかつて経験したことのない、法悦的感激と、無上の歓喜愉楽に酔った天国的二日間であった。」と、その感慨を記している。神々しい霊気と、芸術的雰囲気に包まれたこの旅行は、神秘な啓示を別にしても、参加者一同の心に忘れ難い感動を残したのであった。