教祖はまた、昭和二二年(一九四七年)、茶室作りの名匠・二代目・木村清兵衛に、茶室・「山月を託した。この計画の発端は昭和二一年(一九四六年)の春にさかのぼる。当時日本に進駐していたアメリカ軍の代将(少将と大佐の間に位置する階級)のスミスをはじめ、数名の高官が茶の湯をぜひ見たいと望んだことから、それを知った熱海の有力者からの依頼で、東山荘の茶室を提供したことがあった。かねてから、日本独自の建築美を世界に紹介しなければならない日が必ず到来することを確信していた教祖は、こうした出来事をきっかけに茶室建築を決意し、二年後にその実現をみたのである。
教祖と木村の間には不思議な因縁があった。というのは教祖が大正三年(一九一四年)、実業家の時代に東京大正博覧会に簪を出品し、銅牌を受けたが、木村もその博覧会に茶室を展示していたのである。
山月庵の普請にかかった時、木村はすでに八〇近い高齢であったが、教祖の情熱と理想に打たれ、長年磨き蓄えた技と心のすべてを出し尽くし、一世一代のものを造る覚悟で、まさにい一刀入魂(全身全霊を傾けて仕事にあたること)して、三年の歳月を費し、二五年(一九五〇年)の夏に、ようやく二五坪(八二・五平方メートル)の茶室を完成させたのである。
山月庵の建築に従事した左官職の秋山浜吉は、後につぎのように話している。
「山月庵は木村清兵衛さん、大工の大木さん、それに私の三人で造らせていただきました。私は、当時、日本を代表する実業家の松永安左エ門さん(衆議院議員、九州電気協会・会長を歴任)や岩崎小弥太さん(大正時代から太平洋戦争終結直後までの三菱財閥の当主)、団伊能さん(貴族院議員<*>、九州朝日放送・会長、ブリジストンタイヤ・顧問を歴任)などのお屋敷に出入りしていました関係で、山月庵の工事にも参加することになったのですが、教祖様はときどき現場へいらして『ああ、いいね。』とおっしゃってご満足げでした。そのお言葉には、ご趣味の広い、物分かりのいいお方という感じがこもっていました。あの茶室は、坪あたり大工が五、六〇人かかっているでしょう。普通の家は一二、三人ですが、あれだけ立派なお茶室は、今はもうできないでしょう。教祖様は私たちの仕事に深く温かい理解をもっていてくださったので、とても気持ちよく、楽しんで仕事をすることができました。」
*貴族院は参議院の前身で、皇族、華族、功労者から選出された議員で構成されている
こうして完成した山月庵は、今日、関東における名茶室として知られている。
山月庵ができあがると、これに隣接して竹庭が造られた。竹庭は、苔むす岩と、まばらに生える孟宗竹が、中国風の趣をかもし出している。中国の元時代、竹と岩の絵をよく描いた檀芝瑞という画家があった。教祖もその絵を好み、早くから手に入れていた。この竹庭は、その檀芝瑞の感覚を実物の竹や岩で表現したものである。
竹は地下茎がよく伸びるが、茂りすぎて竹叢が竹薮になっては趣がなくなるので、地中にコンクリートブロックを埋め込むなど目に見えないところに工夫が施されている。
この竹庭の感覚に合わせ、あとから造られた美術館の外観や屋根瓦の青さには中国風の趣が取り入れられ、この一画には、調和のとれた東洋の美が表現されているのである。