大きな店を取り仕切るとなると、目に見えないところで大変な苦労がいる。旭ダイヤの工場の女工やおかかえの職人を合わせると、一〇〇人を超える人々との公私にわたるさまざまな付き合いがある。商売上の客が大町の自宅をたずねることもある。まして教祖の性格であるから、泊まっていく人も多い。これらの人々の世話は、みな妻の務めである。タカの死後しばらくして再婚話が持ち上がったのは、こうした妻の座を必要とする事情からいって、ごく自然の理というべきであろう。
当時大鋸町の南隣りに、南鞘町という町筋があった。後に宝町と名前を変え、さらに中央区京橋に編入されて、現在は大小の会社の集まるビル街を形成しているが、そのころは楓川と呼ばれる運河を背にして、仕舞屋風の家の並ぶ落ち着いた町であった。この南鞘町一五番地に、一人の娘が、叔母にあたるれい〈ヽヽ〉と祖母の三人で暮していた。粋な造りの小奇麗な家で、小さいがよくまとまった庭があり、女所帯らしく隅々にまで心の行き届いた、ひっそりとした暮しぶりであった。娘の名を太田よ志といい、後に世界救世教二代教主となった人である。
よ志は明治三〇年(一八九七年)一月四日、名古屋市天王町(現在の名古屋市中区大須)の生まれである。
太田家はよ志が生まれた時には零落して名古屋に出てきていたが、かつては富山県滑川代代、薬問屋を営んでいた。
しかし、大火災によって財産を焼かれ、その後も不運続きで家運が傾き、名古屋に住居を移したのである。
よ志はその幼い時代を名古屋の門前町で過ごした。ここは先の天王町からほど近く、ちょうど大須観音を中にしてその東側にあたる。よ志は、後に、幼い時代を振り返ってつぎのように書いている。
「明主様は浅草の観音様に、私は私でまた、名古屋の大須の観音様にいずれもご縁が深いのでございます。というのは、私は幼い時は、ほとんど毎日のようにお守さんに負われて、観音様の境内に終日遊ばしてもらっておったとのよしであります。」
事実、大須観音の界隈は、参道の両側に小さな店が並んで賑わっている。その様子が、浅草の仲見世を思わせるし、すぐに映画館や寄席などもあって、浅草の六区を彷彿とさせるものがある。
よ志が名古屋に暮したのは、小学校の一年までであった。生活が楽ではなかったので、上京して南鞘町の叔母・れいのもとに身を寄せ、日本橋区箔屋町の城東小学校二年に編入した。
よ志はきわめて利発な少女で、名古屋の小学校に通った時から抜群の成績であったが、城東小学校でも、どの学科も良い成績で通した。さらに浅草七軒町(現在台東区元浅草一丁目)にあった東京府立第一高等女学校(現在東京都立白鴎高校)を受験してみごとに合格し進学した。当時この学校は、女学校として、東京でも指折りの名門で、容易にはいることができなかったといわれる。
女学校時代のよ志はエビ茶の袴〈を胸高に締め、ピンクのセルの長袖の着物を着て、束髪の襟あしも涼しく登校した。いつもクラスの中心的な役割をつとめる華やかな存在であったが、反面、見る人によっては、多感な娘らしさと、どこか大人びた寂しさとが、隣りあった感じの少女であったという。
よ志の女学校時代の級友には、文豪・島崎藤村夫人・静子、鎌倉円覚寺貫首・朝比奈宗源夫人・はる〈ヽヽ〉、後に教祖の大森の家にしばらく寄宿することにもなった日本画家の小畠辰之助夫人・鼎子などがいる。よ志と鼎子は、とくに仲が良く、女学校時代二人そろって池上秀〈いけがみしゆうほ〉という日本画家について絵を習っていた。その後、鼎子は川端龍子に師事し、青龍社・同人となっている。
よ志は一七の歳に女学校を終えてから、優れた文才を生かして、一時、新聞社に勤めたこともあったが、間もなく祖母や叔母を相手に静かに一日を暮す生活に戻った。新しい芝居がかかると、市村座や歌舞伎座、新富座などへよく出かける以外どこへ遊びに行くということもなく、ただお茶やお花の稽古の帰りに、通りがかりの店に立ち寄って買物をして来るといった、良家の子女に見られるごく普通の暮しぶりであった。
大正八年(一九一九年)の秋も深まったある日のこと、太田家へ出入りしている呉服屋が大鋸町の医師・松本章太の代人としてよ志の家を訪れた。その来意は、
「大鋸町の岡田という人が、ぜひよ志さんを嫁にほしい。」
というのであったが、太田家では先方が再婚であるという理由からその話を断わった。ところがしばらくすると、その呉服屋がまたやってきて、「岡田さんがどうしても嫁にほしいと言っているので、なんとかもう一度考え直していただけないでしょうか。」と言う。しかし、太田家の意志は固かった。
「どうぞこれはないご縁とお思いください。」
と重ねて丁重に断わった。
それで話はついたものと思っていたところ、今度は松本医師自身が夫人を伴ってやってきた。
「岡田さんでは大乗り気で、ぜひお嫁にくださいと言われていまして。」
とあとへ引く様子もない。
「そこまでおっしゃるなら、何もできない娘ではございますが。」
と、太田家も根負けの体である。当人のよ志に聞くと,
「そんなにまで言ってもらうならば、私行ってもいいわ。」
と色よい返事であった。そこで、東京市内のレストランで食事をしながらの見合いがあって、話はとんとん拍子に進んだのである。
教祖が破産宣告を受け、差押えに会ったのは、まさにこのような時期のことであった。差押えを受けた時、よ志との間に結納を交わし、すでに結婚式の日取りも決まっていた。そこで、教祖は自分の心を押えて、
「ある事情のために大変な借財ができてしまったので、こんなことでは嫁にもらっても、かえって気の毒なことになるから、この話は取りやめにしていただきたい。」と申し入れをした。しかし、教祖のこの率直な潔い申し出が、かえって太田家からの信用を深めることになった。そういうことは隠しておくのが普通であるのに、ありのままに言われるとは奇特な方だ、ほんとうに真面目な良い方だというので、
「もう結納もお受けいたしまして、よ志は岡田家のものでございます。借財がおできになったからといって、やめにしたいなどという気持ちは毛頭ありません。たとえ裏長屋におはいりになっても、お金なぞお互いに努力すればできることですから、私どもでよ志を引き取るようなことはいたしません。」
と、これまた、みごとな返答であった。
教祖とよ志の結婚式は、皇居にほど近い日比谷大神宮で執り行なわれた。大正八年(一九一九年)も押し詰まったころのことである。日比谷大神宮とは俗称で、正式には神宮奉斎会本院といい、天照大御神、豊受大神を祭神とする、国家神道の重要な神社であった。大神宮はその後飯田橋へ移され、東京大神宮と改称し、現在にいたっている。一方日比谷の跡地には三井本店のビルが建って、当時の面影はまったく失われ、往時を偲ぶことはできない。
日比谷大神宮は伊勢神宮に参拝を望む東京市民のために、その遙拝所として明治一三年(一八八〇年)に建立されたものである。しかも明治三三年(一九〇〇年)に大正天皇の成婚を記念して、日比谷大神宮の神前で行なわれた結婚式が、東京では一般神前結婚式の始まりであるといわれる。こうした由緒ある神前で、当時無神論者であった教祖がやがて二代教主となる太田よ志と結婚の儀をあげているということには、運命の不思議な綾が感じられるのである。なお、式後披露宴は日比谷大神宮に隣接する大松閣で行なわれた。この時教祖は三七歳、よ志は二二歳であった。
新妻は長持を持って輿入れを済ませると、近所を挨拶に回るというのが、古くからの習わしである。とりわけ商人の場合、隣り近所に礼を欠くようでは、社会にとけこんで、自分の仕事をうまく果たすことはかなわない。よ志は文金高島田に水色の振り袖姿で隣り近所へ一々挨拶に歩いた。女中に袖をあずけたその姿は、惚れ惚れとするほどに美しく、気品のあふれたものであったという。
翌朝、教祖とよ志は、箱根の塔ノ沢に向けて新婚旅行に旅立った。教祖夫妻が宿をとった旅館「環翠楼」は国道一号線に面して、今もなお落ち着いたたたずまいを見せている。
太田家では、あのように思い切ってよ志を嫁にやりはしたものの、嫁いでから箱根に出かけて帰って来る二、三日というものは、しきりに気が揉めた。そこで旅行から帰って、よ志が南鞘町の実家へ里帰りすると、叔母のれいが、
「どうだったの、うまくやっていけそうなの。」と尋ねた。するとよ志は朗らかに、
「私好きになりました。安心してください。あの人ならいいわ。」と言ったので、家中みな胸をなでおろしたのであった。
教祖の頭髪は、当時すでに白く、そのため、よ志は白髪染を持って嫁いできたほどである。そこである時、白髪を治すにはどうしたらよいかと医師に相談した。ところが医師から、
「いや、あの白いのがいいんですよ。」
と逆に慰められ、ついにその薬は使わずじまいになった。