黎明の証し

 六月一五日、日本寺参詣より帰宅した教祖の身辺には、それから三日の間、不思議な事象が相次いだ。教祖はそうした身辺に起こる事象と、日本寺で体験した神事との一部始終符節が合っており、そこに、今後の自分の運命や、世界の推移が暗示されている不思議さに驚いた。それと同時に、その謎の解明に強い関心をもって立ち向かったのである。

 旅を終え、暮れかかる両国駅に着いた教祖はここで一行と別れ、何人かの人々を伴って本所緑町の信者・明石大蔵の家へ立ち寄った。これはかねてから祭典を行なう約束がしてあったのを実行したのである。「明石」という名の言霊が「証し」に通ずるところから、教祖は奇しくもこの日に明石家に立ち寄るよう子走していたことに神の計らいを感ずるとともに鋸山山頂で受けた不思議な霊感の意義が、間もなく明らかにされるという予感に胸を躍らせたのである。

 さらに明石宅での祭典を終わって大森の自宅に帰ってくると、ちょうど麹町で布教をしている弟子の正木三雄がたずねてきていて、半蔵門付近で関東大震災の時破壊された建物の中から拾ったものだといって、欠けた瓦を教祖に見せた。よく見ると、菊の紋章入りの瓦で、紋章のところだけは完全な形で残っていたが、ほかはほとんど欠けていた。教祖は欠けた瓦を手にして、ふと「玉砕瓦全」という言葉に思いあたった。「玉砕」とは、みずからの名誉のため、あるいは悠久の大義のために潔く死ぬことであり、「瓦全」とは、なすところなく無為に生きながらえることである。欠けた瓦から教祖が感得したものは皇室の将来に関する予感であった。しかし、当時はその意味を口外したら大変なことになる時代であったので、自分の胸中だけに秘め、戦後になって初めて発表することができたのである。

 翌一六日になると、さらに暗示的なことが起こった。午前一〇時ごろ小池清三郎という男が大森へ参拝に来た。小池は隣り町の大井に住む下駄職人で、ときおり教祖のもとをたずね、信仰について教えを受けるのを楽しみにしていた。しかし、その日の小池はいつもと違って、ただならぬ様子で、「今朝がた大変な夢を見ました。」
と言うのである。それはつぎのようなきわめて象徴的な夢であった。

 小池の友人の山口という男が往来に穴を掘っていた。そして掘りながら、
 「小池さん、世の中はつまらないものだよ。結局自分で穴を掘って、自分がはいるんだよ。」と言って寂しい顔をした。それが釈迦に似た顔であったというのである。教祖はそれを聞いて、仏の尊い慈悲行をみずからが受け継いでいく暗示であると感じ取った。

 小池の夢の話はなおも続いた。教祖の屋敷にある小さな池に誰かが石を投げた。すると水の表に波紋が広がり、それがしだいに大きくなって、ついに世界大となり、数限りない人々がその渦の中へ巻き込まれ滅んでいく。渦巻が消え、阿鼻叫喚(苦しみのあまり、泣き叫ぶ悲惨な状態)が収まると、あたりは非常に寂しくなって、ただ点々と観音像が立っていたと言うのである。

 小池が夢の話を語った後、なお深刻に何ごとか思い詰めた様子であるので、教祖は、
 「その夢は神様があなたを通じて私にお知らせになったのだから、あなたにはなんの関係もないので気にしなくてもいい。」と諭したが、彼は容易に納得しそうもない。その他に投じられた一石の役割を自分がすることに決まっており、それを果たして自分の運命は尽きるのだと謎めいたことを言い、心底から恐怖感に襲われている様子である。教祖が彼を落ち着かせて、夢の意味を説明した結果、小池は謎が解けたと言って喜んで帰っていった。ところが、間もなく小池の妻から電話がかかり、主人が変なのですぐ来てもらいたい、と頼んできた。さっそく駆けつけてみると、
 「先生、いよいよ私は世界のピントを合わせなければ世界は大変なことになる。私は世界のピントを合わせるために生まれてきたんだ。」
と言う。これを聞いた教祖はいつか厳粛な気持ちになったのである。そして、
 「あなたが世界を救うためにピントを合わせなければならないとしたら、それもいいだろう。しかし、軽はずみなことをしてはいけない。」
とよくよく輸したうえで、帰宅したのであった。

 すると一九日の朝早く、ふたたび小池の妻から、その朝、小池が鈴ヶ森の浜(東京・大森の近くの浜)へ入水して死んだと電話で知らせてきた。

 ここにいたって、教祖は小池清三郎の見た夢と、その悲劇的な結末を総合して、数旦別の鋸山山頂の神事に始まる事実に秘められた意味合いを把握したのであった。

 すなわち、鋸山山頂において感得した霊感は、夜と昼の転換を意味する神の啓示であり、破壊された石仏群や瓦のかけら、そして小池の夢と死は、すべて霊界における大転換の型を示すものであるに違いない。しかも、転換の時は、じつに今であることを覚ったのであった。六月一六日の『日記』に、

  小池氏は立替の夢細々と語りて謎解け喜び帰れり

 また一九日には、

  小池清三郎水死をなせしと朝早く電話に依りて通知来れり

と記している。

 小池の事件に相前後する六月一七日には、また、呪懇〈じつこん〉にしていた彫刻家、森鳳声が教祖をたずねている。森は、
 「自分は今、天照大御神様の木像を彫りたいと思っているが、自分ごとき者が、そんな尊いお姿を彫ることはどうであろうかと迷っている。ぜひご意見を聞かせてほしい。」と言う。教祖が、
 「それは非常に結構だ。ぜひお作りなさい。像の大きさは五尺六寸七分(約一・七メートル)がいい。」
と教えると、彼は喜んで帰った。あらかたできあがったころ、
 「ぜひ一度見に来ていただきたい。」
と言うので、上野に近い谷中の森鳳声宅へ出向いた。見るとなかなかよくできていたが、さらに背中の光背の模様はどうしたらいいかと尋ねるので、教祖は、
 「日を現わす意味で、大きく丸の浮き彫りがいい。」
と教えたのである。

 彫り始めてから約半年ほどで、等身大の尊像がみごとにできあがった。森は、当時大本の信者であったので、その像を白布で巻いて大本へ献納した。

 教祖は先の黎明の秘事と、身辺に起きる暗示的な諸事象を通して、みずからの使命が昼の世界の到来を広く世に宣べ伝え、新しい文明を創造していくことであるという自覚をますます深めていったのである。