前項に述べたごとく霊界は天国、八衢<やちまた>、地獄の九段階になっており、その段階の差別は何によるかというと光と熱である。すなわち最上段階は光と熱が最も強く、最低段階の地獄は、暗黒と無熱の世界であり、八衢はその中間で現界に相当する。現界においても幸福者と不幸者があるのは、天国と地獄に相応するのである。最高天国すなわち第一天国においては光と熱が強烈で、そこに住する天人はほとんど裸体同様である。仏像にある如来や菩薩が半裸体であるにみて想像し得らるるであろう。第二天国、第三天国と降るに従って、漸次光と熱が薄れるが、仮に地獄の霊を天国へ上げるといえども光明に眩惑され、熱の苦痛に堪え得られずして元の地獄に戻るのである。ちょうど現界において、下賎の者を高位に昇らすといえども反って苦痛であるのと同様である。
天国における一段階に一主宰神あり、第一天国は太陽神である天照大御神であり、第二天国は月神である月読尊<つきよみのみこと>及神素盞嗚尊<すさのおのみこと>であり、第三天国は稚姫君尊<わかひるめのみこと>である。又仏界は神界より一段低位で最高が第二天国に相応し、第一天国はない。第二天国は光明如来(観世音菩薩)第三天国は阿弥陀如来及び釈迦牟尼仏である。そうして霊界においてもそれぞれの団体がある。神道十三派仏教五十六派等であり又いずれもその分派が数多くあって、各々の団体には、主宰神、主宰仏及宗祖教祖がある。例えば大社教は大国主尊、御嶽教は国常立尊、天理教は十柱の神等であり、仏界においても真宗は阿弥陀如来、禅宗は達磨大師、天台は観世音菩薩等々で、又各宗の祖である弘法、親鸞、日蓮、伝教、法然等は各団体の指導者格である。この意味において生前なんらかの信仰者は、死後霊界に入るや所属の団体に加盟するをよって、無信仰者よりも幾層倍幸福であるかしれない。それに引換え無信仰者は、所属すべき団体がないから、現界における浮浪人のごとく大いに困惑するのである。昔から中有に迷うという言葉があるが、これ等の霊が中有界で迷うという意味である。
ゆえに霊界を知らず、死後の世界を信じないものは、一度霊界に往くや安住の所を得ない為、ある時期まで痴呆のごとくなっている。この一例として先年某所で霊的実験を行った際、有名な徳富蘆花氏の霊が霊媒に憑依してきた。早速蘆花夫人を招き、その憑霊の言動を見せた所確かに亡夫に相違ないとの事であった。そうして種々の質問を試みたが、その応答は正鵠<せいこく>を欠き、ほとんど痴呆症的であったそうである。これは全く生前霊界の存在を信じなかった為で、現世においては蘆花ほどの卓越した人が霊界においては右のごとくであるにみて人は霊界の存在を信じ、現世にある中、死後の準備をなしおくべきである。
天国や極楽はいかなる所であるか、否一体天国や極楽などという世界は事実存在するものであるか、大抵の人は古代人の頭脳から生れた幻影に過ぎないと思うであろう。しかるに私は、天国も極楽も浄土も厳存している事を信ずるのである。それについてこういう話がある。昔某高僧と某学者と「死後地獄極楽ありや」という論争の結果、高僧は有りといい、学者は無いという。ついに高僧は「真偽を確めるには死ぬより外ない」と言い、学者に対し、両者死をよって解決しようと言ったので、学者は兜を脱いだという話がある。これは笑い事ではない。高僧の言う方が事実である。しかるに生きながら霊界を探究出来得るとしたら、これほど倖せはあるまい。まず私の体験によって知り得た種々の例証をかいてみよう。
某会社重役夫人(三十歳)から重病の為招かれた事があった。もちろん医師から見放され家族や親戚の人達が是非助けて欲しいとの懇願であった。その患者の家は私の家より十里ほど離れていたので、私が通うには困難の為直ちに自動車に乗せて私の家へ連れて来た。その際途中においての生命の危険を慮り夫君も同乗し、私は途中で片手で抱え、片手で治療しつつともかく無事に私方へ着いたのである。しかるに翌朝未明付添の者に私は起された。直ちに病室へ行ってみると、患者は私の手を握って放さない。曰く「自分は今、身体から何か抜け出るような気がして恐ろしくてならないから、先生の手に把まらしていただきたい。そうして私はどうしても今日死ぬような気がしてならないから、家族の者を至急招んでいただきたい」というので、直に電話をかけた。一時間余の後、家族や親戚数人、会社の嘱託医等自動車で来た。その時患者は昏睡状態で脈搏も微弱である。医師の診断ももちろん時間の問題との事である。そうして家族に取巻かれながら依然昏睡状態を続けていたが、呼吸は絶えなかった。ついに夜となった、相変らずの状態である。ちょうど午後八時頃、突如として目を瞠き<みひらき>不思議そうに四辺を見廻している。曰く「私は今し方、何ともいえない美しい所へ行って来た。それは花園で、百花乱漫と咲き乱れ、美しき天人達が多勢いて、遥か奥の方に一人の崇高い絵で見る観世音菩薩のような御方が私の方を御覧になられ、微笑まれたので、私は有難さに平伏した、と思うと同時に覚醒したのである。そうして今は非常に爽快で、この様な気持は罹病以来未だかつて無かった。」との事である。その様な訳で翌日から全然苦痛はなく、否全快してしまってただ衰弱だけが残るのみであった。それも一ケ月位で平常通りの健康に復し、その後もなんら異状はなかったのである。以上は全く一時的霊が脱出して天国へ赴き、観世音菩薩より霊体の罪穢を払拭されたのである。その所は第二天国の仏界である。
次に二十歳位の女子、重症肺結核で一旦治癒したが、一ケ年ほど経て再発し、ついに死んだのである。それでその霊を私が祀ってやった。所がその娘に兄が一人あった。非常に酒飲みで、怠惰で困り者であった。娘が死んでから二、三ケ月経た頃、ある日その兄が自分の居間に座っていると、眼前数尺の上方に朦朧として紫色の煙のごときものが見えるかと思うと、その紫雲は徐々と下降する。すると紫雲の上に死んだはずの妹が立っている。よく見ると生前よりも端麗にして美しく、衣服は十二単衣のごとき美衣を着、犯し難い品位を備えている。そうして妹の曰く「私は兄さんが、酒を廃めるよう勧告に参りました。どうか家の為身の為禁酒していただきたい。」とねんごろに言って再び紫雲に乗り天上に向って消え去ったのである。所が数日を経て同様の事があり又数日を経た三度目の来降である。その時は眼前に朱塗の曲線である美しき橋–が現れ、紫雲から静かに降り立った妹は橋を渡り来って曰く、「今日は三回目で、今日限りで神様のお許しはなくなる。今日は最後である。」といって例のごとく禁酒を奨めたがそれ以後はそういう事はなかったそうで、これはもちろん一時的霊眼が開けたのである。
右は、天国から天人となって現界へ降下せる実例としては好適なものであろう。又面白い事は、右の兄なる人物は全然無信仰者で、霊などに関心など持たず、潜在意識などある訳がないから、観念の作用でない事はもちろんで、右の話は母親から聞いたのである。
次に、これは肉体の病気でない–言わば精神的病気ともいうべき二十幾歳の青年があった。その頃彼はある花柳界の婦人に迷い、遂に合意の情死を遂げんとする一歩手前の所を私は奇跡的に救ったのである。その際彼は二人分の毒薬を懐中に用意していたにみても危い所であった。私の家へ連れて来、早速霊的調査をしてみた。すると彼の口から狐霊が憑依して、そういう事をさしたという訳が分ったので、その狐霊へ対し戒告を与えなどして約二十分位で終った。終ったに係わらず彼は尚も瞑目合掌している(これは被施術者の形式である)。そうして左方に向い首を傾げている。それが約三、四分位でようやく眼を瞠き不思議そうに尚も首を傾げている。彼曰く「不思議なものを見ました。それは自分の傍に、琴のごとき音楽を奏している者があり、その音色は実に何ともいえない高雅で、聞惚れながらあたりをよく見ると、非常に広い神殿のごときものの内部で、突当りに階段がありその奥に簾が垂れている。すると先生が衣冠束帯の姿で静かに歩を運ばれ、階段を昇り簾の中へ入られた。」との事である。私は「後から見たのでは誰だか分らないではないか。」というと彼は「否、確かに先生に違いない」との事で、その服装は、冠を被り、纓<えい>が垂れ、青色の上衣に、表袴は赤色との事であった。これは彼が一時的霊眼が開け、霊界が見えたのである。彼はなんらの信仰もない、商店の店員であって、霊的知識など皆無であるから反って信を置けると思う。そうして彼の坐した左側には神床があって、神様を祭ってあったのである。これはその時の私の幽体がその神殿の奥に居て出て来たものであろう。
以上示したところの三例は、天国の室外と室内と天人の降下状態を知る上において参考になるであろう。
次に仏界における極楽の状態をかいてみよう。この時の霊媒は十八歳の純な処女であった。この娘に憑依したのは、その娘の祖先である武士の霊で、二百数十年前に戦死した由である。その霊は生前真言宗の熱心な信者で死後間もなく弘法大師の団体へ入ったので、私の質問に応じて答えた所は左のごとくである。
「最初自分が来た時は数百人位居たが、年々生れ更る霊が、入り来る霊より多いので、今は百人位に減じてしまった。そうして日常生活は大きな伽藍の中に住んでいて、別段仕事とてはなく、琴、三味線、笛、太鼓等の遊芸や絵画、彫刻、読書、書道、碁、将棋その他現世におけると略々同様の娯しみに耽り暮している。又時々弘法大師又は〇〇上人(私はその名を失念した)の御説教がありそれを聞く事が何よりの楽しみである。又弘法大師は時々釈迦如来の許へ行かれるそうで、そこはこの極楽よりも一段上で、非常に明るく、眩しくて仰ぎ見られない位である。又戸外へ出ると非常に大きな湖があって、そこへ蓮の葉が無数に泛んで<うかんで>おり、大きさはちょうど二人が乗れる位で、大抵は夫婦者が乗っており、別段漕がなくとも欲する方へ行けるのである。そうして夜がなく二六時中昼間で、明るさは現世の晴れた日の昼間より少し暗く、光線は金色の柔く快い感じである。」–と言うのである。
私は度々極楽に住する霊から聞いた事であるが、極楽に永くいると飽きるそうである。二六時中遊びに耽けるだけで面白くないから、神界の方へ廻してもらいたいとよく希望された。私は要求を容れて神界へ移住さした霊は少なからずあった。その理由は神界は最近活動状態に入り、諸神諸霊は多忙を極めている。言うまでもなくこれは昼間の世界が近づいた為である。何となれば神は昼の世界を主宰し、仏は夜の世界を主宰していたからである。
次に地獄界であるが、三段階の最下段は、神道にては根底の国と謂い、仏教にては極寒地獄といい、西洋にては煉獄といい、全くの無明暗黒界で真の凍結境である。そこへ落ちた霊は何十年何百年もの間全然何も見えず、凍結のまま一寸の見動きさえ出来得ないのであるから、まことに悲惨とも何とも形容がし難いのである。私はそこから救われた霊から聞いた時慄然としたのである。かのダンテの『神曲』にある凍結地獄の状態は事実であろう。
中段地獄は昔から一般に謂われている修羅道、畜生道、色欲道、餓鬼道、針の山、血の池地獄、蛇地獄、蜂室地獄、蟻地獄等種々あり、それ等取締りの赤鬼、青鬼も地獄図絵に見るごとくであって、この鬼は現界において、警官獄卒等のうち残忍性に富んだものがなるのである。地獄の刑罰としては彼の束の着いた鉄の棒で殴るのであるが、霊の話によれば、人間の時よりも数倍痛いそうである。それは肉体なる掩護物<えんごぶつ>がなく直接神経に触れるからであろう。
地獄苦について種々の例を挙げてみよう。
まず針の山は読んで字のごとく、無数の針の上を歩くのであるから、その痛さは非常なものであろう。血の池地獄は妊娠や出産が原因で死んだ霊が必ず一度は行く所であって、これは多くの霊から聞いた話であるが、文字通り一面の血の池で首まで浸っており、血腥い<ちなまぐさい>事甚だしく、その池にはおびただしい蛆虫<うじむし>様のものが居てそれが始終顔へ這い上ってくるので、その無気味さは堪らないそうで、始終虫を手で払い落しており、その様な苦痛が普通三十年位続くのである。蜂室地獄はこれも霊から聞いた話であるが、ある芸者の死霊が某美容院の弟子に憑依し語った所によると、人間一人位入る箱の中に入れられ、無数の蜂が身体中所嫌わず刺すので名状すべからざる苦痛であるとの事であった。焦熱地獄は焼死したり、三原山のごとき噴火口へ飛込んだりした霊である。それについてこういう例があった。ある中年の男子、一種の火癲癇<てんかん>で、彼曰く就寝していると夜中に目が醒める。見ると数間先に炎々と火が燃えながら、段々近寄るとみるや発作状態となりその瞬間身体が火のごとく熱くなると共に無我に陥るのである。これは大震災の翌年から発病したとの事であるからもちろん震災で焼死した霊であろう。この意味によって今回の空襲による多数の焼死者の霊は、無論焦熱地獄に苦しんでいる訳であるから、遺族は供養を怠ってはならないのである。
色欲道は無論不純なる男女関係の結果堕ち行く地獄であって、その程度によってそれぞれの差異がある。たとえば情死のごときは男女の霊と霊とが結合して離れない。それは来世までも離れまいという想念に因るからであり、抱合心中のごときは、密着したままで放れないから不便と羞しさ<はずかしさ>の為大いに後悔するのである。たまたま新聞の記事などに表われている–生れた双児の身体の一部が密着して離れないというのは情死者の再生である。又世間で言う逆様事、すなわち親子兄弟、弟子と師匠などの不義の霊は上下反対に密着するので、一方が真直であれば一方は逆様という訳で、不便と苦痛と羞恥によって大いに後悔するのである。これによってみても世間よく愛人同志が情死の場合、死んで天国で楽しく暮そうなどという事は思い違いも甚だしい訳で、実に霊界は至公至平である事が分かるであろう。
こういう事も知っておかねばならない。それは現世において富者でありながら、非常に吝嗇<りんしょく>な人がある。こういう人は現体は金持であっても霊体は貧者であるから、死後霊界に行くや貧困者となり、窮乏な境遇に陥るので大いに後悔するのである。それに引換え、現世において中流以下の生活者でありながら常に足るを知って満足し、日々感謝の生活を送り、余裕あれば社会や他人の為善徳を施すような人は霊界に行くや富者となって幸福な境遇を送るのである。又富豪などが没落する原因としてこういう事がある。それは出すべき金を出さず、払うべきものを払わないという人がある。かくして蓄めた金は盗みと同様の理になるから霊的には盗金を貯めている訳で、これに逆利子が溜る結果、実際の財産は僅少な訳になる。それが為霊主体従の法則によっていつしか没落する。大抵な富豪の二代目が不良か低能で財産を蕩尽<とうじん>するという例がよくあるが、右の理を知ればよく分るのである。
又今度の戦争の結果、財閥解体という事になったが、その原因は右のごとくであって、従業員や労働者に当然与えるべき金額を与えないで、それを蓄積し漸次富が殖えたのであるからである。本来資本に対する利潤は、たとえば郵便貯金や銀行預金は最も安全であるから三分内外が適当であり、安全性がやや欠除せる国債は三分五厘、信託は三分八厘、次いで幾分危険性を伴う株券は四、五分位が適当でありとしたら、資本家が出資する事業資金の利潤を、右を標準として合理的に考える時、まず七、八分~一割位が適正であろう。しかるにそれ以上の利潤を挙げる場合、その余剰利潤は勤労者に分配すべきが至当であるに係わらず、多くの資本家はその様な意志はなく、自己の利欲を満足させる事のみ考え、出来るだけ多額の利潤を所得しようとするのが一般的である。労働運動などに脅えたり、ストライキ等に手を焼いたりするのもそれが為である。したがって妥当なる所得以外の、当然勤労者に配分すべき利潤を取得するという事は、勤労者の所持金を窃取する意味になる、すなわち盗金である。したがって盗金を蓄積して財閥となり栄耀栄華に耽ったのであるから天は赦さない。しかも霊界では逆利子がどしどし殖えるから、ついに今日に至って盗金と逆利子の分だけ剥奪返還されなくてはならない事になったので、全く身から出た錆で誰を怨む事も出来ないのである。ゆえに右と反対に適当な利潤を勤労者に分配し蓄積した富を社会や他人の為に費し、善徳を積むとしたら社会から尊敬を受け、永久に栄える事になる訳である。
上段地獄は、地獄の刑罰が済み、八衢へ昇ろうとする一歩手前であるから大方は軽苦で労作のごときものである。たとえば各家の神棚、仏壇等に饌供した食物の持運び、又は通信伝達、霊の世話役等々である。
ここで右饌供の食物について知りおくべき事がある。それは霊といえども、食物を食わなければ腹が減る。そうして霊の食物とは、すべての食物の霊気を食するのである。ただし現世と違い、極めて少量で満腹するので、霊一人一日分の食糧は飯粒三つ位で足りるのである。したがって普通の家庭で饌供された食物といえどもかなり多数の霊人が食しても余りある位であるからその余分は餓鬼道の霊達に施与するので、その徳によって、その家の祖霊の向上が速かになるのである。この意味において祖霊へ対しては出来るだけ飲食など供えるべきで、万一祖霊へ対して供養を怠る時は、祖霊は飢餓に迫られ、止むを得ず盗み食いする結果、餓鬼道へ堕つるか又は犬猫のごとき獣類に憑依して食欲を充そうとする。それが為畜生道へ落ちるのである。すべて人霊が畜生へ憑依する時は、悪貨が良貨を駆逐するように、漸次人霊が溶け込み、獣霊の方へ同化してしまう。この人獣同化霊が再生した場合その獣となって生れるが、これは生来の獣霊とは異り人語を解する。よく馬、犬、猫、狐、狸、蛇等に人語を解するのがあるが、これ等は右のごとき人獣同化霊の再生である。この同化霊は獣類になってある程度の修行が済むと又人間に再生するのである。ここで注意すべきは蛇、猫等を殺し祟る事があるが、これは同化霊であるからで、同化霊でないものは祟らない。又旧家などに古くから青大将がいるが、これは祖先が蛇との同化霊となって子孫を守護しているので、これ等を殺す場合非常に立腹し戒告を与える。よく蛇を殺してから死人が出来たり家が没落するというような事はそれである。又右と同様古くから祀ってある稲荷などは、それを取潰したり祭典を怠る場合よく戒告を与えられるが、それに気付かないと家の没落までに至る事があるから大いに注意すべきである。
右のごとき実例は非常に多く、読者中にも思い当る事が幾つかは必ずあるはずである。私の経験にこういう事があった。以前私がある家へ治療に行った事がある。その家にかなり大きな犬が居た。家人の曰く「この犬は不思議な犬で、決して外には出ない。ほとんど座敷住居で絹の上等の座布団でないと坐らない。又家人が呼べば来るが、使用人では言う事を聞かない。食物も粗末な物は絶対に食わないという贅沢さで、よく人語を解し、粗末な部屋や台所を嫌い、上等の部屋でなくては気に入らないという訳で、その他すべてが人間の通りである。」との事で、その疑問に対し私はこう答えた。
「それは貴方の家の祖先が畜生道に堕ち、犬に生れ代って来たので、その因縁によって貴方の家に飼われるようになり祖先としての扱いを受けなければ承知しない訳である。」との説明によって了解されたのである。
これは現在開業中の私の弟子が実見した事実であるが、今から二十数年以前、横浜の某所にある中年の婦人、不思議な責苦に遇っているのを聞いたので好奇心に駆られ早速行ってみた。本人に面会すると、彼女は首に白布を巻いていたが、それを取除くと、驚くべし一匹の蛇が首に巻きついている。その蛇は人語を解し彼女が食事をする時は、一杯とか二杯とか量を限って許しを乞うと、その間蛇は巻きついていた力を緩めるので食事をする。それが約束より少しでも超過すると再び喉を締めて、決して食わせないのである。所がその原因について語った所によれば「自分がその家へ嫁入後しばらくして姑が病気に罹ったので自分は早く死ねよがしに食物を与えなかった。それが為餓死同様になって死んだ」そうである。「その怨霊が蛇になって仇を討つべくこの様な責苦に遇わせるのである。」との事で「一人でも多くの世の中の人に罪の恐しさを知らせ、幾分なりとも功徳をしたい。」という念願であるとの事であった。
又動物の虐待について世人の誤解している事がある。それは動物に対し人間と同様に見る事で、動物虐待は人間から見ると非常に苦痛のごとくに思うが、実はそれほどではない。むしろ牛馬のごときは虐待さるる事を欲するのである。ゆえに態と歩行を遅々とするのは、鞭をあててもらいたいからで、鞭の苦痛で走るのではない。牛馬は打たれる快感を貪りたい為である。これについて人間にもサデスムスという性的変態症があるが、これは肉体的虐待によって快感を催すのである。もちろんこれは牛馬のごとき虐待を好む動物霊の憑依によるのである。この意味において動物愛護や動物虐待防止は考え物であろう。
ここで仏壇についての説明をするが、仏壇の内部は極楽浄土の様相を備えて祖霊を招ずるのである。極楽界は飲食饒か<ゆたか>に百花咲き乱れ、香気漂い、優雅な音楽を奏している。ゆえに小やかながらもその型として飲食を上げ花を供え線香を上げるのである。又寺院においても同様で、木魚を叩き、鐃<にょう>を鳴らし、箏<こと>、篳篥<ひちりき>の楽を奏するのはいずれも音楽の意味である。又仏壇へ飲食を供する際鐘を叩くのは霊界への合図である。