御説教

 昔から宗教と名のつくものは、例外なく戒律が主となっており、それを御説教によって教えたのは誰も知る通りであるが、我が救世教に至っては、御説教が非常に少いのは信者も知るとおりで、これに対し幾らかの疑問をもっている人もあるであろうし、又未信者から訊<き>かれた場合、その理由を話さなければならないであろうから、それを書いてみよう。言う迄もなく、宗教の目的は改過選善にあるのだから、それには魂の曇りを取る必要がある。魂さえ清くなれば、悪い事は出来なくなり、世の為人の為に善を行う立派な人間になるからである。

 それに対し、耳からの教えによって魂を浄める手段が御説教であり、目からと言霊<ことたま>からそうするのが、バイブルや経文、御筆先等であるのは勿論だが、本教は耳から目から、又言霊での清めもあるにはあるが、それらは従であって、主とする処は浄霊である。何となれば五官<ごかん>を介して浄めるのは間接的方法であって、見えざる魂に向っての体的方法であるから、効果の薄いのは勿論である。処が本教浄霊に至っては、直接魂に向って霊光を注いで浄めるのであるから、その効果たるや到底体的の比ではない。丁度病気の治り方と同様、他の療法を散々行っても治らない病気が、短期間に訳なく治るにみても明らかである。

 右の如くであるから、いつも言う通り本教は宗教ではなく、超宗教と言ってもいいのである。そうして宗教とは、読んで字の如く宗祖の教えであって、教えによって人心を済度<さいど>するのが建前となっているが、前記の如く本教は教えは第二第三で、浄霊によって人を善化するのであるから、第一手数も時間もかからずして、効果百パーセントという訳である。実に宗教以上と言っても敢<あ>えて過言ではあるまい。そんな訳で、今は適当な名前が見当らないので、仮にメシヤ教と名づけたまでである。これも今迄にこのような素晴しい救いがなかったから名称もないので、亦<また>止むを得ないと言えよう。強<し>いて言えば救いの光とでも言うより外に言葉はないであろう。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書