今までに二回御守の光に遮断され、レントゲンの光が透過しない実例を本紙に載せたが、今回で三回目の右と同様な事〔略〕があったので科学的にいえば三回の実験を経てもはや確定したといってもいいので、新しい言葉でいえば霊科学上の定説となった訳である。人も知るごとくレントゲンはほとんどの物質を透過する強力な素晴しい光線として礼讃しているが、それ程の強力な光を御守から放射される光で阻止するのであるから、全くレントゲン以上の強力な光線である。ではこの驚異的光線は何によって生み出すかというと、これこそいかに説明しても到底信ずる事は不可能である。すなわち私が半紙一枚へ墨と筆とで「光」の一字を大書した文字から、右の光線が放射されるのであるから、神秘以上の神秘である。
この事は信者には分っているが、第三者としては恐らく理解出来ないであろうから、出来るだけ分りやすくかいてみよう。ところで右の「光」の文字を書く場合、私の手と指を透し、次に筆墨をも透して紙に印せられるのであるから、形式では普通人と同様のかき方である。それだけで前記のごとき強力な光が文字中に含まれるのであるからこの神秘こそ恐らく人類肇って以来ない事であり、しかもこれを書く時間は、一枚精々七秒位であって、一時間に五百乃至六百枚は楽である。しかも別に祈ったり精神を篭めたりするような事は全然なく、平々坦々たるもので、煙草の喫みたい時は、左手の指にシガーを挟みながら右手でかく、その上退屈を紛らす為、必ずラジオを聴きながら書くのである。
夏の暑い時など、腰から上だけ裸になって書く事もある。衆知のごとく昔から教祖などが御守を作る場合、斎戒沐浴、神に祈り、謹厳犯し難き態度で臨むのに比べたら、私のやり方は、余りにお粗末であるから、普通の人が見たら唖然とするだろう。それというのは私の腹の中には、最高神霊が在しますので、只私は躰を貸している訳である。つまり神が私を一種の道具として、自由自在に使われるのであるから、私としては敢て神に祈る必要などはない。祈るのは神と人間とが分離しているからである。その点私はまことに気楽なもので、実に有難いと感謝している。恐らく世界肇って以来私のような飛び抜けて変った宗教家はあるまい。
序に他の事を少しかいてみるが、これも信者はよく知っているが、地上天国の模型である神苑にしても、建物にしても、美術館やその中のケースにしても、考える事はほとんどない。その都度そう思うだけで間髪を容れず頭に浮ぶので、そのまま指図するだけである。という訳で人から見て難しいと思うような事でも、私には何でもないのである。故に医学に関した事でも農業に関した事でも、その他何事でも同様であるのは、私が現在行っている仕事振りをみてもよく分る筈である。まだまだ色々言いたい事があるが、限りがないからこの辺で筆を止めるとする。
(明主)