私はいつも御任せせよという事を教えているが、つまり神様にお任せし切って、何事があってもクヨクヨ心配しない事である。というと実に造作もない訳なく出来そうな話だが、ドッコイ中々そうはゆかないものである。私でさえその境地になった時、随分御任せすべく骨を折るが、ともすれば心配という奴、ニョキニョキ頭をもたげてくる。というような訳で、しかも今日のような悪い世の中ではほとんど不可能と言ってもいい位である。しかしながら神様を知っている人は大いに違う。というのはまず心配事があった時、それに早く気がつく以上、ズット楽になるからいいようなものの、ここに誰も気がつかないところに重要な点があるから、それを書いてみよう。
というのは、これを霊の面から解釈してみると、それは、心配するという想念そのものが一種の執着である。つまり心配執着である。ところがこの心配執着なるものが曲者<くせもの>であって、何事にも悪影響を与えるものである。だが普通執着とさえ言えば、出世をしたい、金が欲しい、贅沢がしたい、何でも思うようになりたいという希望的執着と、その半面、あいつは怪<け>しからん、太い奴だ、実に憎い、酷<ひど>い目に遭わしてやりたい、等という質<たち>の悪い執着等であるが、私の言いたいのはそんな分り切った執着ではなく、ほとんど誰も気がつかないところのそれである。では一体それはどんなものかというと、現在の心配や取越苦労、過越苦労等の執着である。それらに対し信者の場合、神様の方で御守護下されようとしても、右の執着観念が霊的に邪魔する事になり、強ければ強いほど御守護が薄くなるので、その為思うようにゆかないという訳である。この例として人間がこういうものが欲しいと頻<しき>りに望む時には決して手には入らないものであって、もう駄目だと諦めてしまった頃ヒョッコリ入ってくるのは、誰も経験するところであろう。又こうなりたいとか、アアしたいとか思う時は、実現しそうで実現しないが、忘れ果てた頃突如として思い通りになるものである。浄霊の場合もそうであって、この病人は是非治してやりたいと思うほど治りが悪いが、そんな事は念頭におかず、只漫然と浄霊する場合や、治るか治らないか判らないが、マアやってみようと思うような病人は、案外容易に治るものである。
又重病人等で、家族や近しい人達が、みんな揃って治してやりたいと一心になっているのに、反って治りそうで治らず、遂に死ぬ事が往々ある。そうかと思うと、その反対に、本人は生死など眼中におかず、近親者も余り心配しないような病人は、案外スラスラ治るものである。ところでこういう事もある。本人も助かりたいと強く思い、近親者も是非助けたいと思っているのに病状益々悪化し、もう駄目だと諦めてしまうと、、それからズンズン快くなって助かるという事もよくある。面白いのは、俺はこれしきの病気で死んで堪<たま>るものか、俺の精神力でも治してみせると頑張っているような人は大抵死ぬもので、これらも生の執着が大いに原因しているのである。
右のごとく種々の例によってみても、執着のいかに恐ろしいかが分るであろう。従ってもう とても助からないというような病人には、まず見込がない事を暗示し、その代り霊界へ往って必ず救われるようにお願いするからと、納得のゆくようよく言い聞かせてやり、家族の者にもその意味を告げ浄霊をすると、それから好調に向うものである。又これは別の話だが男女関係もそういう事がよくある。一方が余り熱烈になると相手の方は嫌気がさすというように、まことに皮肉極まるが、これも執着が相手の心を冷ますからである。このように世の中の事の多くは、まことに皮肉に出来ているもので、実に厄介なようでもあり、面白くもあるものである。右によっても分るごとく、物事が巧くゆかない原因には、執着が大部分を占めている事を知らねばならない。私がよく言う逆効果を狙えというのもその意味で、つまり皮肉の皮肉であって、これが実は真理である。