教祖はまた、槍ヶ岳登山と同じころの大正一二年(一九二三年)八月なかば、奥日光から奥会津へはいり、ふたたび塩原へ折り返す山旅をしている。これは当初、奥日光の湯元から川俣温泉を越えて、湯西川へ抜ける予定であったのが、途中、道を誤って、はるか塩原まで三五里(約一四〇キロメートル)の長旅をするはめになってしまったからである。
川俣、塩原は共に、栃木と福島の山間に位置する落ち着いた温泉町である。日光国立公園の中でも、表口の日光が、徳川幕府の庇護を受けた華やかな歴史をもつのに比べて、平安の昔、壇の浦の合戦に敗れた平家の落武者が、ひっそりと身を隠した秘境の面影を今にとどめている温泉郷である。
川俣は昭和四〇年(一九六五年)にダムが完成したことによって、出湯と湖を兼ね備えた観光の地となった。しかし大正一二年(一九二三年)ごろには、二、三軒の農家と清涌館という名の一軒の宿屋があるきりの寒村で、訪れる客も少なかった。教祖はこの温泉での愉快な経験をユーモラスにつぎのように書いている。
「温泉は勿論男女混浴で、最初私一人湯に浸ってゐると暫くして三十前後の三人の女連が入って来た。彼女等は私のゐる事など知らぬ気に、湯槽に浸ったので私の方がキマリが悪かった位だ。処が彼女の方から言葉をかけた。
『旦那はドチラからです。』
私。『東京からだ。君達は何処から来たのか?』
彼女等。『私達は栃木県の○○村の者で、この温泉は子供が出来ると聞いて来たんです。』
といふ。こんな事をキッカケに種々世間話に花が咲いたが、これも山奥の温泉巡りの一人旅の淋しさを癒してくれた忘れ難い一挿話でもある。」
教祖がはいった揚は、近くの鬼怒川の河原に温泉がわき出していたのを、周囲を石で囲っただけのもので、屋根も何もない、正真正銘の野天風呂であったが、その後、湯を引き入れて内湯としたので、今はもうない。
教祖は翌朝、さらに奥にある湯西川湯泉へ行くべく川俣をあとにした。ところが途中で山の案内人が道を間違えてしまった。
「旦那、これは道を間違えました。先刻道標を見た時、湯西川行きの文字の棒杭が倒れかかっていたため間違えたのです。申しわけありません。あいにく地図を忘れてきたので、もしかすると今晩は野宿になるかもしれません。」
と言う。しかし今さら引き返すわけにはいかないので肚〈はら〉を決めて進むことにした。するとしばらくして案内人が急に立ち止まり、足もとを見ながら、
「ははあ、熊が出やがった。この足跡は熊で、まあ、相当大きい。二〇貫(七五キログラム)以上ありましょう。」
と言うのである。教祖がびっくりして、
「君、大丈夫か。」
と聞くと、
「このナイフがありますから、大丈夫です。」
と海軍ナイフを見せるので、教祖もいくぶん安心したというわけであった。
途中、水が無いので喉の渇きを我慢しながら、いくつもの山を越え、ようやく小さな流れを見つけて喉をうるおしたり、道がわからなくなって樵(きこり)小屋で尋ねるなどして、都合五〇キロの道を歩き通し、揚の花温泉にたどり着いたのは、夜の八時過ぎであった。道を間違え、県境にある田代山を越えて、栃木から福島へはいってしまったのである。
揚の花温泉は幾重もの山間を渓谷に沿ってはいった奥会津の山村にある。湯岐川の流域に集落が点在し、草葺屋根の古風な民家が目につく。大正一二年(一九二三年)当時、ここの旅館は、清滝と湯本という名の二軒きりであったので、教祖はそのいずれかに泊まったはずである。
足の裏に豆をこしらえて、ようやく旅館にたどり着いた教祖は、出された膳の、名も知れない茸〈きのこ〉に面くらい、鶏の卵のおかずでようやく夕食を済ませた。
翌朝、足の裏が痛むので、馬を頼み、塩原まで一七里 (約六八キロメートル)の道のりを出発した。途中、馬が登れないほどの急坂にさしかかったので馬を降り、足の裏の豆をだましだまし歩いて峠を越えたが、三依村という寒村にさしかかるころ、日がとっぷりと暮れた。
「聞いてみると宿屋が一軒あるといふので、そこを訪ね、『部屋はあるか?』と訊くと、『満月だ。』といふからガツカリしたが、野宿する訳にもゆかないからよく事情を語り頼んだ、『それでは……。』といひ、蚕が散らばってゐる部屋を片づけて案内されやっとくたびれた足をさする事が出来た。私は『満員だといふのに馬鹿に静かではないか。』と質くと、妻君らしいのが、『客間は一間で、一人のお客で満員になった。』といふので思はず吹出した。全く便所みたいだ。面白い事には『お客様これから肴を採ってくるべえから。』といって下男らしいのが出て行った。暫くすると、『カジカをとって来た。』といふので、見ると鯊〈はぜ〉のような魚で、早速煮てくれたが、なかなか味は良かった。客の顔をみてから溝川へ肴をとりにゆくといふ呑気さは山村なるかなと微笑を禁じ得なかった。」
翌日は宿屋の馬に乗って出かけたが、ひどく年老いた馬で、足もとがおぼつかないうえに道幅が狭くて、かたわらの谷が深い。聞くと三年ばかり前、馬もろとも人が落ちて死んだというので、危険を感じて降りて歩いた。しばらく行くうちに道が広くなったので、ふたたび馬に乗ったが、間もなく急な坂道にさしかかると馬がつまづいて膝を着いた拍子に、教祖はもんどりうって道端へ落ち、腰をしたたかに打ってしまった。道幅が狭かったら命があぶないところであった。そこで金を払って馬を帰し、あと一里半(約六キロメートル)ほど歩いて、ようやく塩原に到着したのである。
教祖は商売を始める前の痛弱なころから旅行が好きで、兄の武次郎と一緒によく旅をした。若いころから自然の美しさの中で心を洗い、旅先の人情の触れ合いを楽しんだ。それが神を求め、信仰の道を極めるようになって、その旅や登山は、新しい意味をもち始めたようである。奥日光から塩原温泉への山旅や槍ヶ岳登山は、一見すると一人の実業人の旅という印象が強く感じられるようだが、しかしそれは、ただ単に自然美を探り求め、その中に浸りきるというだけではなく、さらに深く、大自然の営みの中に、神の計〈はか〉らいを感得しようとする宗教心へとつながっていくのである。