昭和一九年(一九四四年)から、教祖は毎年夏の四、五か月は箱根に、そのほかは熱海に住む習わしであった。熱海滞在の時は、ほとんど毎日のように午後の一、二時間、瑞雲郷へ行って工事の指図をした。箱根に滞在の時は、日に何度となく庭へ出るほか、夕方には必ず一時間くらいかけてゆっくりと神仙郷を一回りする。その時工事の指図をすることもあった。
教祖は指図の時にも、余り細かいことは言わず、できあがりを一目見るなり、よければ「良い」というし、不満があれば「まずい」と言って新たに指示をする。一度「良い」と言えば、それで決まりで、あとで前言を翻すようなことはけっしてなかった。また、職人は初めのうちこそ一つ一つ指示を受けるにつけ、「素人のくせに」という思いから内心不満をいだくことがあったが、教祖の天性の勘の鋭さと、一度狙いをつけたら迷いのない指揮ぶりに兜を脱ぎ、しだいに心服するようになったのである。
教祖の即断即決は、文字通りの待ったなしで、指示を受ける者がその早さについていくのが大変だった。仕事にあたる職人や奉仕者は、命令を受けても日数や予算が気にかかり、とてもできないと思ってしまうことがよくあった。ところが二度、三度やり直しながら必死に取り組んで、いざできあがってみると、まさに教祖が言ったようになる。そこで、今さらながらに教祖の見通しの確かさと智慧の深さに感動するのであった。
教祖の指示や構想は先の先を読んでのものなので、その当座は真意がわからずに戸惑ってしまうのである。ところが時がたつうちに夢のように思われたことが現実となり、破天荒とさえ思われたことが、じつは理にかなった構想であることが納得できるのであった。
教祖が仕事を進めるにあたって口癖のように言ったことは、
「私の言う通りにやってくれればいいんだ。」
ということであった。ところが、経験のある者の場合にはよけい仕事に自分の考えがはいりがちである。教祖の指示に対して、おいそれと素直にはなれない。そこで、
「どうもあんたは仕事がうまくできるからいけない。植木でも何でも仕事のできない者は私の言う通りにやる。仕事ができる者は自分の考えでやってしまう。それがいけないんだ。」
と、妙な叱られ方をする者が出てくるのであった。
昭和二七年(一九五二年)神仙郷の苔庭の造営が進められていた時の話である。教祖は一人の植木屋に、一隅の大きな岩を一尺(三〇センチメートル)動かすように指示した。すると植木屋が動かしたのは二、三寸(数センチメートル)であった。そこでもう一度やり直しをさせたところ、今度は五、六寸(十数センチメートル)だけ動かした。二度やり直しをさせても指示通りできなかったので、教祖はやむなく親方を呼んだ。親方は教祖の言葉をよく聞いて,
三、四時間のうちに教祖の望み通りに仕上げてしまった。しかもその岩は、その場所にぴたりと納まったのである。
教祖は素直であることの大切さを説いて、
「仕事ができるという自信は持っていても、私の言う通りに素直にやらなければいけない。そうすれば立派なものができる。」
とよく言ったのである。それはまた、教祖自身が神ながらの境地にありながら、日常の生活をおくるうえで、みずからの信条としたことでもあったのである。
素直ということとともに、この岩の一件から考えるべき点は、聖地造営に対する教祖の心配りである。もしこの岩が庭園の中央にでもあって、大いに人目につくから、二度三度やり直しをするというならば、当然のことであろうが、事実はそうではない。じつはこの岩は、箱根美術館の休憩所の前、苔庭へ進む橋のたもとにある岩であるから、橋の陰に隠れて、人目につく所ではない。しかもかなりの大きさなので、一人や二人の手で持てるようなものではなく、ちょっと動かすにも、丸太三本でやぐらを組み、鎖で岩を巻いたうえ、かぐら巻き<*>を使って吊り上げて動かすのである。今の時代ならば、機械力で簡単に動かしてしまうであろうが、当時はすべて人力であったので、作業は並みたいていではなかったのである。
このように神苑の隅にある岩一つに対してさえ、教祖は手間、暇を惜しむことなく、本当に心のこもったものを造り上げようと努めたのであった。この教祖の心は、箱根、熱海の両聖地の一木一草一石にいたるまで、深く、こまやかに込められているのである。
*心棒に直角に九太を交差させ、数人で回転させて、心棒に綱や鎖を巻き取り、その力で岩を引いて持ち上げたり、横へ動かしたりする道具