人間の賢愚

 人間生れながらにして腎愚があるのはいかなる訳であろうか。これについて解説してみよう。それについて前もって知らなければならない事は、人間は一度は必ず死ぬが、死とは何ぞやという事であるが、死とは実は老廃したり、大負傷したり、病気の為衰弱したりして、その肉体が使用に堪えなくなった為に、霊魂はその肉体を捨てて霊界へ往き、数年、数十年、数百年に渉って浄化作用が行われる。それは現界における生存中に、いかなる者といえども相当の罪穢を犯し、それが溜っているので、ちょうど長く清掃をしない家や衣服と同様であって、浄化された霊から再生する訳は前項に述べた通りであり、もちろん人間の霊には再生が多いが、新生の霊もある。この新生の霊は霊界における生殖作用によるので、これは現界の生殖作用と異なり神秘極まるようである。かくのごとく再生の霊と新生の霊とがあり、新生の霊は人間としての経験が乏しい為、どうしても幼稚であるに対し、再生霊に到っては、人間としての経験を積んでいる為賢い訳であるから、再生の度数の多いほど賢く、偉大なる人物は最も古い霊魂という訳である。

 次に転生というのがある。これは仏教に輪廻転生という言葉があるが、この事である。これは人間が生存中に犯した罪が重い場合、畜生に生れる。すなわち狐、狸、猫、犬、蛇、蛙、鳥等が重なるもので、多くの種類がある。何故畜生道へ堕ちるかというと、生前の想念と行いが人間以下に堕落し、畜生同様になったからである。こういう事をいうと、現代人はとかく信じ難いであろうが、私は二十数年に渉り、無数の経験によって動かすべからざる断定を得たのである。

 その中で二、三の実例を書いてみよう。

(一) 某家に長年飼われているかなり大きな犬があった。家人曰く「この犬は不思議な犬で、座敷に居て決して地面へ降りようとしない、使用人が呼んでも行かない。すべて家族の者でなくては言う事を聞かないばかりか、絹布の座蒲団でなくては座らないし、座敷も一番良いのを好み、食事も贅沢好みで、人間と同じでなくては気に入らないのです。これはどういう訳でしょう」と質くので、私は――「この犬はあなたの家の祖先が畜生道へ堕ち、犬に生れたのです。したがって貴女方を自分より下に見ており、自分は家長の気持でいるのです」と答えたので納得がいった。

(二) 六十歳位の老婆、狐霊が二、三十匹憑依し、それが豆粒大の大きさで身体中に居り、特に腋下に多くいた。私はその豆粒へ指の先から霊射をすると非常に苦しむ。その際老婆の口から「痛い、いたい苦しい、助けてくれ。今出る、出るから勘忍してくれ」というような事をはくと共に豆粒は順々に消え去るが、数時間経つと又集ってくる。これはいかなる訳かというと、その老婆は前生において女郎屋の主人であって、その時傭った(やとった)多くの女郎が畜生道に堕ち、狐霊となって、復讐せんと、老婆を苦しめているのである。ある時は「老婆の生命を奪る」と狐霊が囁き、心臓部の下を非常に痛めたり、ある時は食事半ばにして食道を締めつけ、飯を通らなくしたり、ある時は一日位尿を止める等、種々の悪戯をするが、その都度私は霊射し治癒させたのである。

(三) 以前私は、宗教が当局から圧迫された時代、やむを得ず民間治療を行った事があった。その際衣服を脱がせて患部を治療したのである。その頃腰部から腹へかけて蛇の鱗のごとき斑点があり、赤色あるいは薄黒色の人を度々見た事がある。これは蛇が人間に転生したので、その鱗の形が残存している訳である。

 又色盲という病気は動物霊の転生であって、その動物の特異質が残存している為である。すべて動物の眼は物体が単色に見えるもので、ちょうど動物の音声が一種又は二種位の単音である事と同一である。

 その他多数の実例があるけれど略すが、すべて転生の場合、残存せる動物霊の性能が多分にあるものである。そうして動物に人語を解するのと解せないのとがあるが、人語を解せないのは純粋の動物である。猫や蛇を殺したりすると崇るというが、これは人間が転落し再生した動物であるからで、そうでないのは崇るような事はない。よく田舎などで青大将が旧くからいるが、これは祖先が蛇となってその家を守護しているので、こういう蛇を殺すと必ず崇って、次々に死人が出来たり、はなはだしきは家が断絶する事さえある。それはせっかく守護していた祖霊を殺した為、非常に立腹するからである。そうして人間性の中執着が蛇霊となり、偽りを好み人を騙したりする結果は狐霊となるのである。一旦畜生道へ堕ちて転生しても、その一代はあまり幸福ではない。特に女性の独身者の多くはそれである。

 今一つ面白い事がある。旅行の時など特に親しみのある場所があるが、それは前生においてその付近に居住又は滞在した事のある為である。又他人であって親子兄弟よりも親しめる人がある。それ等も前世において親子、兄弟、主従、親友等であったからで、因縁とはこの事を指して言ったものである。それと反対にどうしても親しめなかったり、不快を感ずる人は、前世において仲が悪かったり苦しめられたりした為である。又古の偉人英雄や武将等で、特に崇拝する人物があるが、これ等も前世において自分が臣下や部下であった為である。又熱烈な恋愛に陥る男女の場合、これは前世において、相愛しながら恋愛が成立しもようなかった男女がたまたま今生において相知り、その時の執着が強く霊魂に沁み付いている為で、目的を達した喜びの余り夢中となるのであるが、これ等は当人自身でも不可解と想うほど情熱が燃え上るものである。又男女共独身を通す者があるが、これは前生において男女関係が原因で、刑罰や災害等により生命を奪われる際、悔恨の情に禁えず、男女関係に恐怖を抱いた為に外ならないのである。

 その他水を恐れたり、高所を怖れたり、人混みを恐れたり、又はある種の獣類、虫類等を怖れたりする人は、右の原因による死の為である。以前こういう例があった。その人は人の居ない場所を悚れ(おそれ)、一人も居なくなると恐怖に我慢が出来ず往来へ飛出し、家人の帰宅するまで家に入らないのである。これは前生において急病等の為、人を呼びたくも誰も居らず、そのまま死んでしまった為で、その霊が再生したからである。

「信仰雑話」 昭和23年09月21日

信仰雑話