日光殿

 観山亭が完成して間もないころ、建築の統制が一部緩和されたので、教祖は弟子、信者との面会のために参拝所(後の日光殿)の建築を計画した。終戦直後、秋田県のある神社の所有であった秋田杉一〇〇〇石<ごく>(約二七八立方メートル)を購入し、トラック二十数台で小田原へ運んで製材をした後、さらに神仙郷まで上げてその用材にあてることとした。

 すると間もなく、今度は神山荘下方の土地六百余坪(約二〇〇〇平方メートル)を売るという話が舞い込んだので、即座に買い入れた。そこのゆるやかな斜面を、整地したところ、かなり平坦な土地ができあがった。こうして材木もそろい、土地も整ったので、いざ建築にかかろうとしているころ、かねてから親交のあった長唄界の重鎮、四代目・吉住小三郎<*>を通じて建築家の吉田五十八を知ったのである。
 
 *一八七六年~一九七二年。長唄唄方<うたかた>。吉住家家元。昭和三八年(一九六三年 )、子の小太郎に名義を譲り、慈恭と改名(平凡社刊・「日本人名大事典』より

 それは、教祖が吉住の住居を見て大変気に入り、それが吉田の作であることを知って、会ったのが縁<えん>の始まりであった。後に吉田の印象を教祖は、
 「話合ってみると頭脳明晰、私の意見とよく合ふので、全く神様が寄越してくれたと思った。」

と書いている。こうして教祖は、新たに建てる参拝所の設計を吉田にゆだねたのである。

 吉田五十八は明治二七年(一八九四年)、東京の日本橋の生まれで、東京美術学校(東京芸術大学の前身)の図案科(今日の建築科を含む)を卒業後、一時西洋建築を志して欧米に渡った。そしてイタリアの初期ルネッサンス建築のすばらしさに圧倒され、伝統の重要さを教えられて、かえって日本の伝統建築を見直そうという決意をいだいて帰国したのである。
西欧の模倣に流れることの多かった日本建築界は、茶室風の数寄屋建築を基盤として、新しい建築美を開花させた吉田の出現に、強い衝撃を受けた。

 吉田は昭和四九年(一九七四年)にこの世を去るまで、奈良の大和文華館や中宮寺本堂、 東京の歌舞伎座をはじめ、個人の邸宅など数多くの建築史上に残る設計をして、昭和三九年(一九六四年)には文化勲章を受章している。

 吉田は『饒舌抄』という本の中で、著名な建築家の言葉を引いて、住宅建築の極致は、
 「新築のお祝ひによばれて行って、特に目立って<*>めるところもないしと云って又けなす処もない。そしてすぐに帰りたいと云った気にもならなかったので、つい良い気持ちになってズルズルと長く居たといったやうな住宅。」
だと紹介している。

 *振り仮名は編集者・挿入

 奇をてらうことなく、さりげない落ち着きの中に工夫を凝らす、こうした吉田の建築に村する考え方は、やはり日本の伝統建築に対しての洗練された感覚を身に付けた教祖にとって、深く共感するものがあったのであろう。

 吉田はまた右の文章の続篇の中で、建築家としての心情を、
 「机上万巻<*>の外国建築書を山積<*>してデザインしても、第六感の働かない建築は何となくピッタり来ない。人から借りた知恵は駄目な場合が多い。綜合的条件<*>の下に誠心誠意考へる時は、必ず第六感が働くものである。」

と書いている。これもまた直観を尊び、自分もその時々のひらめきで造営の指図にあたった教祖の考えに相通ずるものである。

 *振り仮名は編集者・挿入

 二人を結び付けた共感の根底には、共に芸術への深い理解をもっていたこと、また東京美術学校の先輩、後輩にあたることなどとあわせて、江戸っ子同士の心の通い合いがあった。それも、ただの江戸っ子ではない。並みはずれた大きさをもつ江戸っ子同士の心意気が二人を結び付けていたのである。

 このように「日光殿」の建築にあたっては、聖地の造営のすべてがそうであったように、神の加護によって道が開け、昭和二三年(一九四八年)二月二三日に着工、
その後も順調に建築が進められて、同年五月には仮落成式を行ない、二四年(一九四九年)の五月には一応の完成を見ている。

 この参拝所は初め、背後の早雲山にちなんで「箱根道場・早雲寮」と名付けられたが、昭和二五年(一九五〇年)に「日光殿」と改められた。当時、建物に関してまだ建築規制があり、百坪(三三〇平方メートル)以下に制限されていたので、初めはその枠内にとどめられたが、昭和二六年(一九五一年)に規制が緩和<かんわ>されたので、日光殿の増改築を行ない今日にいたっている。

 なお吉田は、観山亭のサンルームと風呂場を増築したさいも、その設計を担当している。

  大神の珍宮居をうち樹<た>てし今日の慶び何にかたとえむ

  時満ちて神の斎庭<ゆにわ>の初祭参来かがやく信徒の面