「日本観音教団」発足

 終戦後しばらくの間、神業は民間療法の形によって続けられていた。しかし、その後間もなく、アメリカ占領軍が、当時の日本の思想を調査し始めた。「日本浄化療法普及会」もその調査の対象となったが、その時調査に来たのはニコルスという人物である。ニコルスが清水町別院に夫人を伴って訪れた時、教祖は本数についてさまざまな説明をした。しかし掌から霊的な光が出るということが彼らにはどうしても理解できなかった。そこで教祖は、一つの実験をして見せることにした。池の向こうに何人か立たせ、中島一斎にこちらから浄霊をさせたのである。中島がこちらで浄霊を始めると、はたして向こう岸では咳や 気<おくび>をする。しかしニコルスが、故意にやってるのではないかと疑ったので、今度は立ってる人を後ろ向きにし、ニコルスの合図で浄霊をした。もちろん、結果は前と同様で、彼の疑いはまったく消えてしまったのである。教祖はこの様子を終始ニコニコしながら見ていたのであった。

 ニコルスはこの訪問を通じて非常に好感をもち、「この団体は非常にいいことを主張している。」という印象をもって帰った。その後、このニコルスが中心になって働いてくれたお蔭で、日本観音教団の設立も非常に順調に進み、昭和二二年(一九四七年)八月三〇日、宗教法人「日本観音教団」として正式に発足したのである。

 秋も深まった同年一一月一一日、玉川・宝山荘において、その発会式が盛大に開かれた。おもな幹部、信者は全国から参集したが、この時、教祖はみずからつぎのような祝辞を寄せている。

  日本観音教団発会式祝辞
 
 「顧みれば昭和九年(一九三四年)<*>十月<**>私は大日本観音会なる名称の下に、観音運動を始め、その目的は病貧争絶無の世界をつくるといふにある。然るに其頃の当局の方針としては、類似<るいじ>宗教を無差別的に弾圧の方針であったから、当大日本観音含もそれに漏れず、徹底的の弾圧をされたのである。したがつて、爾来全然宗教から離れ、治療専門によって発展しつつ今日に至った事は、諸君の知る通りである。これも皆応身弥勒である観音の働きによる事であって、そこに妙味津々たるものがある。ここに天運循環観音の力徳を発揮し、妙智を揮<ふる>ふ天の時が来たので、実に観音妙智力である。」
      * ( )内は編集者・挿入
      **立教は一〇年元旦であるが、その構想は前年一〇月、すでに教祖の心中にあったと推察される

 「日本観音数団」は顧問として教祖をいただき、主管には渋井総斎が推挙された。本部は東京都世田谷区玉川上野毛の宝山荘に置かれ、総務部、教務部、保健部、社会事業部の四つの部から構成された。

 地方組織の方は八分会とされたが、それぞれの会名、会長名、所在地は、つぎの通りである。
 
五六七会    渋井総斎
  東京都世田谷区玉川上野毛町一一〇
  
 天国会    中島一斎
  静岡県熱海市伊豆山西足川一三六

 大和会     坂井多賀男
  神奈川県鎌倉市雪ノ下六六

 生和会    高頭信正
  東京都王子区中十條三丁目六番地

 進々会    荒屋乙松
  岩手県一関市地主町二五

 メシヤ会(後に光宝会と改称)木原義彦
  福岡県三潴<みづま>郡大川町向島東上野六七七

 木の花会    内藤らく
  静岡県富士宮市城山一三六五

 大成会     大沼光彦
  東京都世田谷区北沢三丁目一〇八六

 さらに翌二三年(一九四八年)の七月には、九つ目の分会が設立された。

 日月会(後に明成会と改称)小林秀二郎
  神奈川県小田原市新玉二丁目二二四番地

 「日本観音教団」発足時において改められたのは組織ばかりではなかった。宗教として再出発した教団においては、それまで「治療」と呼ばれていた浄霊は、「お浄め」と呼ばれるようになり、さらにすぐ「浄霊」と改められ、「お守り」は経書きの「光」、「光明」、「大光明」となった。 また二三年(一九四八年)一月からは、『善言讃詞が奏上され、「賛歌」の奉唱が行なわれることとなった。久しい間、仮の姿をとって行なわれてきた神業は、ここに名実ともに宗教の形態を整え、その活動にはいった。

 教祖の指示に基づき、「大光明如来」と漢字で書いた神体に向かって、「みろくおおみかみ」と神名を唱<となえるように改められたのも、この時期のことである。後に二代教主の時代になって、「みろくおおみかみ」の神体は「大光明如来」の文字から、「大光明真神」となった。  すなわち衆生済度を願って、菩薩の位に身を落とし、観世音菩薩の名のもとに顕現した天地創造神が、いよいよ本来の位に立ち返って人類救済の大業を進めるべく、働きを始めたのである。  こうして指圧浄化療法という民間治療から、「日本観音教団」という宗教法人へと一大飛躍が行なわれたのである。しかし、会員の一部に動揺が起きた。自分の悩みが救われればそれでよいという心の人々は、人類を救い、地上を天国化するという理想を聞かされて、かえって不安を感じた。また、浄霊を療術と考えるにとどまり、その背後に神の存在と、人類を救おうとする神の愛を見出すことのできなかった人々の中には、宗教への飛躍にさいして「だまされた」と受け取る人も多かった。また、知識人の中には、浄霊の偉大さは体験しながらも、それが神の力であると認めることは、自分の信条とする唯物的な世界観と相容れないと考える者もあった。また、自分が新興宗教にかかわりをもつことが世間的な体面にさしさわりがあると思った人々もいたのである。  こうして「日本浄化療法普及会」の会員のうちから、かなり多くの人々が、「日本観音教団」の発足に伴って離れていったのである。  しかしながら一方において、すでに「日本浄化療法普及会」の時から、自分が救われたことによって、他の多くの人々を救うべき使命に目覚め、浄霊の奥に理想世界建設の神の意図を感得していた人々は、求めていた時代が今こそ到来したことに、言い知れぬ喜びをかみしめたのである。 こうした人々の燃えるような布教への情熱によって、全国的な規模で大きな奇蹟が続出し、新たに多くの人々が救われていった。こうして一方において脱会者が多かったにもかかわらず、それを補って余りあるほどの発展が遂げられ、昭和二二年(一九四七年)「日本観音教団」発足の年は、また教団史上、未曽有の発展の年ともなった。こうして終戦時には、正式な会員がわずか数百名であったのが、それから二年後には数万の信者を擁する教団へと成長していったのである。  「日本観音教団」が発足してから一年余り、昭和二三年(一九四八年)一〇月、教祖は九分会の一つである五六七会を「日本五六七教」として独立させた。  教祖は間もなく発刊された機関紙『光』の創刊号に「日本観音教団」と「日本五六七教」の関係をつぎのように書いている。  「凡て物には陰陽があり、夫婦があり、経緯がある如く、両者長短欠点を補い合い進む事こそ、発展が速かになるのであって、言わば左右の腕ともいえる。これが真理である。」  教祖の言葉の通り、「日本観音教団」及び「日本五六七教」のその後の発展は目覚ましく、一年後の昭和二四年(一九四九年)には信者の数は合わせて一〇万を越える勢いとなったのである。