教祖は、「大日本観音会」という宗教的な名前で発足し活動を開始したが、応神堂に進出して以来続けてきた治病法、すなわち、岡田式神霊指圧療法の施術にみずからあたり、神霊による癒しの業としてそれを積極的に進めていた。しかもその偉大な効能は日に月に現われ、救いを求める人々が急速に増加していったのである。それとともに、その宗教的治病の原理、衛生などの理論についても、尋ねる人がしだいに多くなってきたので、教祖は五月五日、自観荘へ移ってからは神霊指圧療法の名前で、応神堂進出以来、一年にわたる施術の実際を通して得た治病の原理の確立と体系化を図った。すなわち、その名称を、「日本医術」とし、これによって唯物偏重の科学の行き過ぎを打破し、新文明を開く鍵にしようと考え、神示のままに筆を執り、編んだものを基に、神霊医術修得者の養成に力を入れようとしたのである。
教祖の神霊による「日本医術」とは、日本に生まれ、日本人である教祖によって創成された神霊救済力なるがゆえに名付けられたものであり、その内容は『日本医術講義録』として一冊にまとめられ、発表された。この講義録は活版印刷でなく、手書きの謄写<とうしや>版刷りのものであった。『日本医術講義録』の冒頭<ぼうとう>には主旨として岡田式指圧療法の原理と
その目的について、つぎのように書いている。
「此療法の創成は、主神が、人類の最も苦悩とする病気疾患を根絶せんとなし給ふ御目的に出でたるものにして、その御目的遂行の為表現仏たる観音の霊体を通じ、仁斎の肉体を活用させ、茲に、神人合一的大能力を発揮するに到ったのである。
この大偉業の神命を受けたる余は、爾来<じらい>、七年間、あらゆる病者に接触、研磨修錬を経、その間、観世音より、幾多の霊示を享けたる結果従来の医学の、ほとんど夢想だもせざる治療成績を挙げ得たので、ここに、日本医学の新しき名の下に、人類救済の根本的大経綸を開始する事となったのである。
しかして、この療法は、何人が修得するといえども、余の許しを受くればその人の霊体を通じて発揮する観音力に依って、驚くべき治病能率を挙げ得るのである。」
『日本医術講義録』を出版してから、教祖は半蔵門前の「大日本観音会」の仮本部に「日本医術講習所」をもうけて、講義録に基づき昭和一〇年(一九三五年)六月四日から講習を始めたのである。すなわち、教祖は観世音菩薩の霊示によって得た観音救済力によって、それまではおもにみずからが施術にあたっていたが、神業の進展に伴い、この講習の開始によって施術取次者の養成を図ったわけである。
「大日本観音会」が発足した当初は、救済力の取り次ぎは幹部一三人にしか許されていなかった。その方法は、教祖の揮毫した文字、または手形をおした扇子御手代<みてしろ>と呼ばれた)を被施術者の患部にあてることにより病が瘉されるという形を取っていた。したがって、「大日本観音会」発足当時は、浄霊の取り次ぎが許されていたのはごく一部の弟子たちだけであった。
しかし、五月五日を期して、神業が新たな段階へ進んだことを感得した教祖は、救済力の取り次ぎを多くの信者に許すために、前述したように講義録に基づく講習会を開いて、人材の養成にあたったのである。これが後に述べる「観音講座」へと発展してゆき、その本旨は今日の「入信教修」に受け継がれていくのである。
日本医術の講習は、一週間、浄霊を実地見学し講義録を読了することによって終了し、終了者には治療士の資格が与えられた。この講習と、「治療観音力」と教祖が揮毫したお守りを掛けることによって、無限の救済霊力を発揮することができたのである。
こうして浄霊の力は、それまで扇面によっていたものが、教祖の揮毫するお守りを通じて揮<ふる>われることとなった。この結果、教祖のみが行なってきた、直接掌をもって取り次ぐ浄霊は、弟子たちはもちろんのこと、多くの信者に許されることになったのである。
奇びなる観音力は現身を通して世人<よぴと>救はせ給ふ
昭和一〇年(一九三五年)一一月一一日発行の『大日本観音会会報』には、この時までに講習を受けた一〇一名の名簿が大日本観音会治療士として掲載されている。