『何故救世教となったか』

 又仏教は月であり、月は夜の光であるから、観世音菩薩は御仏である以上、夜の月の御働きであるから、絶対力は揮い得なかったのは時期の関係で止むを得なかったのである。従って、いよいよ昼の世界になる以上、仏の御働きはここに解消し、神様の御働きとならせらるるのである。それが前述のごとく救世教となった事はもちろんである。

(中略)

 という訳で最高の神様は民族や国の差別などはなく、世界全人類を救わせ給う事になり、実に有難い時となったのである。ここにおいて適当な名称を冠せなくてはならない。とすれば救世の名こそ最も相応しいが、救世教では漢字である以上東洋的で面白くない。そこでメシヤの振仮名をつけたので、これによって東洋も、西洋も合わせて世界的という訳である。特にメシヤの言葉はキリストに相通じ、文化民族憧憬の名称においてをやでもある。

 又聞くところによれば、メシヤと最後の審判とは密接な関係があるという事で、吾等が常に唱える夜の終りと昼の始まりとの意味と同様であるのは意義実に深いものがある。

 ところで観世音菩薩が神の御働きとなるとすればどういう変り方になるかは、信仰者として最も関心事であろう。それは度々いうごとく、善悪無差別的救いが無差別ではなくなり、善悪をはっきり立別けられるのである。という事は善の御守護は益々厚くなり、悪は今までと異いいよいよ厳しく裁かれ給うのである。この点を深く肝に銘じて進むべきである。それには何よりも出来るだけ御神書を拝読する事である。

 神様は、御理想である真善美の完き地上天国を造らるる以上、心の穢れた間違った者を徹底的に是正されなければならないからである。

「地上天国14号」 昭和20年03月20日

地上天国