開館後、箱根美術館を多くの人々が訪れた。その中には、国立博物館長・浅野長武、美術工芸研究家の柳宗悦、洋画家の梅原竜三郎、阪急電鉄の創始者・小林一三、元皇族で陸軍中将だった賀陽恒憲、文化財研究所長・田中一松、文化財保護委員会調査官の田山方南、国際的な仏数学者の鈴木大拙、その高弟の古田紹欽、日本舞踊家の花柳寿太郎、歌舞伎役者の岩井半四郎など、各界の著名人で、いずれも芸術を愛し、日本文化に対する造詣も深い人々が来館している。
浅野長武は教祖の鑑識眼について、
「そもそも美術品の鑑賞は、いわゆる勘だけではだめで、沢山のいい物を見て、日ごろからそういうものの話を聞いて、それを頭の中に蓄えて、そして自分のものにする・・そういう努力が必要なのです。それを教祖さんはやってこられたのでしょう。
いいものを愛し、尊ぶ心が強かった教祖さんでした。学術的ではなく、好みをいい意味に広めて、しかも厳しく選んで、それらを生かした。これが教祖さんであり、それを生かす楽しみを知っていた人です。
しかし楽しみは、また反面、苦しみでもあったでしょう。その苦しみこそ、また、楽しみであったと思います。」
と述べている。
浅野は戦前には貴族議員を勤めたことがあり、若いころから美術を愛好し、その確かな鑑識眼には定評があった。それゆえ、教祖に対する彼の言葉は、自分自身の体験から生まれた共感に基づくものであって、美術修業をめぐる苦楽を相共にわきまえた二人の人物は、ただ一度の出会いであったにもかかわらず、尽きることのない関心と感動を覚えながら、時のたつのも忘れて、美術品を見ながら、語り合ったのであった。
また谷川徹三も、展示品の中に国宝や重要文化財が多いというだけでなく、指定を受けていない美術品の中に、優れたものが多い、という事実に教祖の鑑識眼のすばらしさを感じ取っている。
谷川は美術館開館・披露のさいにも招待され、その印象を『読売新聞』紙上に寄稿したが、翌二八年(一九五三年)四月にふたたび美術館を訪れ、続いて熱海の碧雲荘に教祖を訪問、美術談義に花を咲かせたことがあった。そして、この時の記事を七回にわたって『報知新聞』紙上に連載している。
すでに触れたように美術館の建設途上、教祖は、
「完成すると世界中の人々がやってくる。だから思う存分、日本の美を楽しんでもらう。」
と確信に満ちた力強い調子で断言した」その言葉は完成とともに現実のものとなった。海外の報道関係者や知識人が箱根を訪れ、「世界救世教」の名は広く海外にも報道されたのである。
すでに美術館完成の祝典日にあたる六月一五日、米国イリノイ州ノース・ウェスタン大学数授・プレーデン博士が箱根に教祖を訪れ、歓談の時がもたれたし、その一週間後にはフランスの雑誌『パリマッチ』主筆・レモン・カルティユが来ている。その後もオリンピック組織委員会会長・アベリー・ブランデージ、ワシントン・フリヤー美術館長・ウエンリー博士、ニューヨーク・メトロポリタン博物館・東洋美術部長・A・プリースト博士、パリ・セルニスキー博物館副館長・マドレーヌ・ダヴィッド、上智大学の教授であり、同時にジャパン・タイムズ記者を兼ねていたエリーゼ・グリリ、東京イヴニング・ニュース記者ウェイグル・シモンズ、陶芸家・バーナード・リーチなどその数は多い。
教祖は事情の許すかぎりこれらの来訪者に会い、親しく会話をかわした。
来訪者が一様に感嘆の声をあげたのは、陳列された美術品のすばらしさはもとより、大きな窓から、外光がふんだんに差し込むように工夫され、館内を穏やかな、落ち着いたたたずまいにしていること、また窓から一望される箱根の風光、美術館と、それを取り巻く庭園との美しい調和など、内外の環境のすばらしさであった。
昭和二七年(一九五二年)八月、箱根を訪れた米国ニュージャージー州・ニューアーツ美術館のチャールス・カティング夫妻は、帰国にさいしさっそく一通の手紙(英文)を送ってきた。その中でつぎのように書いている。
「このたび、箱根美術館を拝見いたし、先生の並々ならぬご事業に接し得て帰国できますことは、このうえない喜びです。といいますのも今日、日本の社会ではあまりにも西洋風の考え方が多すぎるように思われますが、先生のお仕事である美術館のご計画には、日本本来の姿が感じられるからです。」
このように外国からの来観者は、等しく神仙郷の庭と美術館に忘れ難い感動を覚え、日本の伝統的な美を魂〈たましい〉の奥深く受け止めて帰国したのである。
中でも昭和二八年(一九五三年)の夏に箱根を訪れ、教祖にも何度か会って、文化や言葉の違いを越え、美への情熱を掛け橋に温かい親交が結ばれたのは、先にあげたエリーゼ・グリリである。
グリリはオーストリア生まれのアメリカ人で、初め西洋美術の勉強をした。日本に来るまで中国美術について学んだことはあったが、日本美術についての知識はないに等しかった。しかし、ひとたび日本の美術に触れるや、その豊かさに魅せられ、全国の美術館や蒐集家のもとを訪れ、直接美術品に接しながら研鑚を積んで鑑識眼を養った。単に美術品について学ぶだけでなく、神道や仏教など、美術を作り出した日本の精神文化、日本人の宗教的、芸術的感性についても理解を深めた。
グリリは当初、「世界救世教」を、数多い日本の宗教の中の一つとして考えていたが、美術館をたずねるうちに、しだいに印象が変わって、その底深さ、スケールの大きさが理解できるようになったと述べている。
グリリはNHK国際局に勤務する夫マーセル・グリリとともに、足しげく美術館をたずねるうちに、しだいに神仙郷が教祖の思想を具体化したものであることを理解するようになった。さらにその後、熱海の碧雲荘に教祖をたずね、親しく話をかわす機会を得て、美による魂の浄化という宗教の理念を知り、宗教と芸術を神の意図のもとに総合しようとする世界救世教の活動に対し、その実現への限りない可能性が秘められていることを確信したのである。後に教祖の遺言によって、グリリ夫妻に能衣装が贈られた。それは後日、よ志の同意を得てイスラエルのハイファ美術館に寄贈され、今日もなお、その一隅を飾っている。
このように国籍を問わず、美術館を訪れ教祖に会った人々が、一様に深い喜びを得たのは、美術を愛するという共通の心によって結ばれたという理由からだけではない。教祖がいつも、来観者に、どうしたら楽しく美術品を見てもらい、満足してもらえるか、そのことに大変心を砕いていたためである。
たとえば、教祖は参拝日の前日になると、決まって、
「明日来る信者に、最近手にはいったものを見せてあげよう。」
と言って、一般来観者がいない時を見計らい、美術館へ来て陳列替えの指図をするのであった。また特別の賓客の場合には、前もってその好みに合った美術品を展示しておくという具合に、いつも見る側に立って、あれこれと心配りをするのであった。したがってこのような教祖の心づかいは、来観者の心に深い感銘を与えずにはおかなかったのである。
また、それは単に美術館に限ったことではない。私的な客を迎えるおりにも、なんとか気持ちを和め、喜んでもらおうと、いつも心からのもてなしをしたのであった。教祖は、「感じの良い人」という論文の中で、
「結構な美術品や絶佳な風景を見ると、自分一人楽しむのは張合もないし、気も咎めるので、一人でも多くの人に見せ、楽しませたいと思う心が湧いて来る。という具合で、私は、自分だけでなく、人に楽しませ、喜ぶのを、自分も楽しみ、喜ぶという事が一番満足なのである。」
と書いている。このように、教祖は多くの人々と喜びを分かち合おうという心から美術品を集め、花を生けたのであって、こうした教祖の心がおのずから来観者に大きな喜びとなって伝わっていったのである。
教祖はすでに美術館完成前、美術部門を教団から独立させ、財団法人とする組織の整備に着手していた。財団法人・東明美術保存会の設立申請は、昭和二七年(一九五二年)五月、文化財保護委員会に提出し、九月に認可されている。財団設立の主旨は、文化財、古美術の散逸を防ぐとともに、広く社会に公開し、国民の美的教養の育成に資し、文化国家建設の一助たらんとするというものであった。こうして美術館活動は開館後間もなく、社会的な位置付けを得て、より積極的に展開されていったのである。
教祖は昭和二七年(一九五二年)の美術館完成後も引き続き名品の蒐集を進めた。このころ数多く入手したのはエジプト、ペルシャ、インドといった西方地域やギリシャの海外古美術と浮世絵である。とくに肉筆浮世絵のコレクションには、多くの名品が加わり、質量ともに第一級といわれるまでになったのである。
蒐集の一層の充実にともなって箱根美術館における企画展示も積極的に行なわれた。昭和二八年(一九五三年)の四月一日からは、中国、朝鮮、インド、ペルシャ、ギリシャ、エジプトの工芸品の展示が行なわれている。教祖はまた展示室の規模を拡大するため、萩の家の後方に別館を建設した。昭和二八年九五三年)六月、新装なった別館において桃山時代から現代にいたる浮世絵展が開かれた。東京国立博物館から賛助出品があり、毎日新聞社、東京日日新聞社の後援で行なわれたこの展覧会はその内容の充実ぶりから美術界の注目を集め、数多くの新聞に報道された。さらに翌二九年(一九五四年)四月には東京の三越本店において肉筆浮世絵名作展を、そして五月には北海道札幌の三越で浮世絵版画名作展を開催するにいたった。
敗戦後のこととてまだ国は貧しく、民衆もその日その日の生活に追われ心の余裕をもつどころではなく、まして身近に芸術の香り高い美に触れる機会を得ることなどほど遠い時代に、大衆にその機会を与えようとした教祖の試みは大成功を収めた。東京も札幌も、連日多くの入場者が訪れ、春の日本列島に華やかな話題を提供したのである。
さらにこの年の七月から九月にかけて、箱根美術館を会場に、三度にわたって初めての美術講座が開かれた。この企画は、人々を俗塵離れた神仙郷に招き、優れた芸術品を前に、一流講師の解説を聞くことによって、教祖の意図の実現をめざしたものである。この美術講座は冬と夏の年二回に拡充されたが、今日まで毎年開催され、多くの愛好者に喜ばれている。
一方、美術品の蒐集もますます意欲的に続けられた。とりわけ教祖の晩年には、尾形光琳作の「紅白梅図屏風」や野々村仁清作「色絵藤花文茶壷」(共に現在、国宝)など、日本美術を代表する至宝が入手されて、箱根美術館はいよいよ世界的な名声を博するにいたった。
「箱根美術館を造ってみて、改良、改善すべき点もいろいろわかったから、今度造る熱海の美術館は、もっとすばらしいものを造る。」
と、教祖は箱根美術館を建設中のころから、さらに新たな美術館を建設する計画について繰り返し語っている。
すなわち、熱海に建てる美術館が、箱根のものとは比べものにならないほど立派な、世界的なものであり、特別展示室を設け、代表的な名品がいつでも観覧できるようなものであると、その具体的な内容にも触れている。そして熱海に美術館ができあがり、瑞雲郷が完成することによって世界の注目を集めるようになるとともに、宗教事業も文化事業も飛躍的に進展する時代を迎えることになると、未来への展望を明示したのである。
しかし、こうした構想の実現を見ることなく教祖は昇天したが、その構想は箱根美術館が開館した昭和二七年(一九五二年)より数え、ちょうど三〇年たった昭和五七年(一九八二年)、しかも教祖生誕百年にあたる良き年に、熱海・瑞雲郷鳳凰台にMOA美術館として実現したのである。