内外の嵐

 昭和四年(一九二九年)一〇月、ニューヨーク・ウォール街で株の大暴落が起こった。これが口火となって勃発したパニック(金融恐慌)は、数年にわたって、世界中の国々を巻き込み、史上最大の大恐慌となったのである。アメリカでは工場、商店の倒産が相次ぎ、一九三三年には失業者一五〇〇万、農民の収入は三分の一に落ち込んだという。ドイツにおいても経済は極度に悪化し、一般民衆の生活は大変厳しいものであった。そして一九三二年には、ついに第一次世界大戦に伴〈ともな〉う賠償の支払いさえも打ち切りになった。この混乱に乗じて台頭してきたのがヒットラーの率いるナチスで、一九三三年、彼は首相となって権力の座につき、やがてヨーロッパ全土に風雲を巻き起こすことになるのである。

 さて日本は、昭和の初めから不景気が続いていた。苦労して大学を卒業しても、待っているのは失業だけという、当時の学生の嘆きを描いた映画「大学は出たけれど」が作られたのも、昭和四年(一九二九年)のことであった。そこへこの大恐慌の嵐が吹き荒れたのである。未曽有の経済危機のため、昭和五年(一九三〇年)、そのころの輸出の花形であった生糸は、真っ先に大打撃を受けた。これがほかの物価の下落に拍車をかけて、この年における失業者は三〇〇万人に達した。

 政府は、この大恐慌に全力を尽くして対処し、とくに、貿易振興のため中国との協調を狙い、また、軍備を縮小して軍事費の削減〈を計ったりした。しかし、これらの施策は軍部や右翼の反発をあおり、政治家に対する不信を募らせ、武力による政治改革を志向させることになったのである。

 昭和五年(一九三〇年)一一月、時の首相・浜口雄幸東京駅頭において、右翼の青年に襲われて重傷を負った。このころは満州問題を中心に、一部軍人らの暗躍が激しく、その画策によって、翌六年(一九三一年)九月に満州事変、さらに七年(一九三二年)一月には上海事変が起こっている。そして、この年政府要人や実業界の大立者の暗殺が起こり、ついに五月一五日には軍人の一団によって犬養毅首相が射殺された。これが世に言う五・一五事件である。

 この日、教祖は千葉の越河宅から帰京してこの事件を知り、つぎのような歌を記している。

 犬養氏負傷や其他忌はしき事件突発驚きにける

 昭和七年(一九三二年)三月に満州国は建国されたが、その承認をめぐって日本は列強諸国の猛反対を受け、ついに、翌年三月、国際連盟を脱退し、「世界の孤児」となってしまった。このころからしだいに民主的思想は押えられ、自由主義的色彩のものは姿を消し、「非常時」とか、「挙国一致」という言葉によってしだいに軍国主義の時代へと移っていく。やがて、昭和一一年(一九三六年)二月、陸軍の一部軍人が起こしたクーデター二・二六事件が発生し、日本は第二次世界大戦への道を突き進むことになるのである。

 そのような社会情勢の中で大本は思想運動に力を注いでいたが、教祖はすでに記したように、苦しんでいる人を具体的に救うことこそ大事中の大事であるとして、人助けのための病気治しに専念していた。また、請われるままに、お守りや[おひねり]をみずから作って信者に与えた。
しかし、大本機関紙の配布でも、教祖の大森支部はいつも群を抜いて、目覚ましい成績をあげていたのである。これらのことが混じり合って大本内の幹部や信者の一部は、教祖に対し誤解や偏見、嫉妬などの悪感情を日増しに強めていき異端者扱いをしだした。やがてこれらが、教祖排斥の動きとなって燃え上がってくるのである。

 昭和六年(一九三一年)三月中旬のこと、教祖が[おひねり]を出していることが大本本部の耳にはいった。そのため、幹部の一人がみずから麹町半蔵門前の麹町分所に出向いて来て、満座の中で教祖を詰問するという事件があった。大勢の信者の面前で教祖を罵り、そのうえ、教祖の作ったおひねりを火鉢にくべて燃やしてしまったのである。

 その場に居合わせた弟子の一人は、その模様を、つぎのように話している。
 「その時の教祖様は、信者の前で恥をかかされ、まったくお気の毒でした。しかし、じっとこらえて一言も言われませんでした。」

 おひねりに端を発した波乱はこれで収まるどころか、翌七年(一九三二年)には、ますます拡大する様相を呈した。この年の二月一一日のことである。大本信者の吉川という青年が大森の教祖宅を訪れた。吉川はもと共産党員であったが、後に転向して入信、半年ほど前から教祖の知遇を得て、ときおり、大森へ遊びに来ていた。形相に凄みのある男で、共産党時代すでに相当人から恐れられた人物とのことであった。しかし、この日の彼は、常日ごろの友好的な態度とは打って変わって、
「大事なお守りやおひねりを、岡田は勝手に信者に与えている。大本の秩序を乱すけしからん人間であるから、場合によっては殺してやろう。」
と、勢い込んでやって来たのであった。

 吉川は教祖に向かい合うなり、短刀を抜いて畳に突き刺し、
 「よすか、もしよさなければやっつける、返事をしろ。」
と凄んだ。教祖ははっきりと、
 「よすことはできない。」
と突っぱねると、いよいよ、いきりたってにらみつけるのである。ところがその時、今まで居丈高に構えていた吉川がにわかに腹をおさえて、のた打ち始めた。
 「どうした。」
と教祖が尋ねると
「腹が痛くてしようがない。」
と苦しさに喘ぎながら言うのである。そこで教祖は、
 「治してやるから横になりなさい。」
と寝かせて浄霊をした。やがて痛みが治まると今までの態度は一変して、吉川は一緒に亀岡の大本本部へ行き、出口王仁三郎に判断を仰ごうと言い出したのである。それから一週間後の一七日、教祖は清水清太郎と正木三雄を連れ、吉川と共に亀岡へ向かった。吉川がお守りやおひねりの一件を述べると、出口は、 
 「それは信者としてはできない。ワシでさえできないで、三代(大本三代教主)にやらしている。けれども、目立たないようにやってくれればいいだろう。目立つとワシがみなに責められて困る。みながほしがるならやってもいいから、目立たないようにやってくれ。」 
と言ったので、吉川はあまりの意外さに黙ってしまった。

 この吉川問題により、出口王仁三郎が心中ひそかに教祖の霊格の高さを認め、大本の中でも特別の存在と考えていたことが改めて確かめられたのである。もちろん、吉川のこの行動は、単に本人一人の感情だけではなく、教祖に対する反感を代表するものであった。そして、この時は出口の仲裁で一応収まりはしたものの、しこりは残り、教祖排斥運動は依然としてくすぶり続けたのである。

 しかし、一つのまとまりのある組織宗教として活動を続ける大本が、決められた枠以上にみずからの道を歩む教祖に対し、厳しい姿勢をとるにいたったのは当然のことといわなければならない。

 教祖が大本を脱退する直接の原因となったのは、昭和九年(一九三四年)七月、同教の機関紙『愛善新聞』の配布をめぐってのトラブルからであった。そして事態の成りゆきに憤った中島一斎、岡庭真次郎、清水清太郎、松久茂徳の四人が当時、大本の関東地方の要職にあった某幹部と決定的な意見の対立をみるに及んだのであった。

 弟子たちは、くれぐれも自重するようにと常日ごろ注意されていたにもかかわらず、このような不祥事を引き起こしたことを、心から教祖にわびた。教祖は弟子たちの不始末は不始末としながらもそれに合わせ、敏感に事態の変化の背景にある神の働きを感じ取った。そして弟子の失態の責任を取ることによって、大本から離れることとし、九月一五日に届けを出して、新たな道を歩み始めたのである。