すでに記した通り、昭和一五年(一九四〇年)一一月の第二次・玉川事件を契機として教祖は第一線の浄霊活動から身を引いた。昭和一〇年(一九三五年)の立教以来ずっと続けてきた浄霊や入信のための教修、お守りの下付などはすべて弟子に任せた。そして、ひたすら揮毫や、治療師の養成に専念することとなった。それ以後の入信者には、弟子が教祖に代わってお守りを取り次ぎ、そのあと宝山荘へ案内することとなった。当時のおもな弟子は中島、渋井、荒屋らであった。
布教を任された弟子たちにとって、神から授かったお蔭はもちろん、布教の状況を報告するとともに、さらに教祖直々の指導を受けたいという思いは切実なものがあった。しかも、第二次・玉川事件を境に、白昼、多くの人数で教祖に会うことは危険になったことから、おもな弟子たちが主宰する各会ごとに面会日の日割りが決められた。この面会のあと、映画観賞と会食会が開かれることとなった。
教祖との面会という形は、このように布教報告と指導とを根幹にして生まれたのである。
布教報告はやがて教線の拡大とともに、入信者名簿や浄霊報告書という形の書類でするようになった。教祖はこの種の書類を受け取ると、いつも丹念に目を通し、不審な点や不備があれば、すぐその場で尋ねるのを常とした。献上品一つを例にとっても、そこに込められた信者一人一人の心を感じ取ろうとする深い心配りがなされた。
教祖が短い時間に、どれほど注意深く報告書の内答に目を通したかを物語るエピソードが伝えられている。戦後間もないころであった。浄霊の献金(当時は民間治療の形で活動をしている時であり、治療代といった)を二円以上にするようにという教祖の指示があったのを承知していながら、弟子の一人は、“金取り主義に思われるといけない。”と気をきかしたつもりで心配し、以前のまま一円以上で浄霊を取り次いでいた。しかし報告書に嘘は書くことはできないので、それをそのまま記入したのである。
すると面会の席で報告書に目を通していた教祖は、すぐ気付いて、「計算が違うじゃないか。」
と言った。そして、身に覚えがあるので深く頭を下げているその弟子に向かって、教祖は、
「あんた、三〇入来て三〇円じゃ、一人一円じゃないか。私は二円にするように言っただろう。言われた通りにしなければ駄目だよ。大体、あんたは神様を馬鹿にしている。高くしてもいいんだ、高いほど治るんだよ。あんたはわからないから自分の都合でやっているのだろうが、これから気をつけなさい。」
と言った。人間の情から言えば、より少額で浄霊を取り次ぐことが望まれるであろう。しかし、ここに重大な落とし穴がある。人間的な思惑ですることが、神を人の側に引き寄せ、神力の発揮を妨<さまた>げることになるからである。事実この後、教祖の言葉通りにすることによって、この弟子は奇蹟が続出し、多くの人を導いたのであった。
こうして報告書に目を通した後、弟子たちから、お蔭の報告や、当面している問題、病気のこと、霊界のことなど、いろいろな質問を受け、これに答えるという形で指導が行なわれた。
前記の通り、宝山荘時代は警察の監視の目が厳しかったので、面会の時も、できるだけ宗教色を表へ出さないようにし、一民間療法という仮の姿に徹しきっていた。したがって参拝は行なわず、当然祝詞や讃歌の奉唱もない。入信者は「受講者」と呼ばれ、浄霊は「ご治療」と称していた。面会の人数も大体一〇名くらいに制限されていたので、幹部が選んだ者だけが参加を許されるという状態であった。したがって、面会を許されるということは、信者や専従者にとってこのうえない名誉であり、何ものにも代え難い喜びであった。多くの行けない人々の代表であるというように強く心に思いながら面会の席に連なったのである。
昭和一九年(一九四四年)、教祖が箱根と熱海に住まいを入手し、やがて翌二〇年(一九四五年)、終戦を迎えてから教線は目覚ましい発展を遂げ、面会者もしだいに増加してきた。特高警察の監視も終戦とともに消滅したので、信者はもはや、弾圧の目を警戒しながら教祖のもとをたずねる必要がなくなった。このころの面会は、箱根の時は神山荘の「上の間」、熱海では東山荘の別館で行なわれた。「宝山荘」時代とほぼ同様な報告、指導と、口頭による質疑応答がそこで行なわれたのであった。
面会にあたって信者を前にした教祖は、別段ふだんと変わる様子もなく、人間味あふれるざっくばらんな応対ぶりであった。煙草にマッチ、灰皿、拡大鏡、赤鉛筆、耳かき、懐紙といった七つ道具のはいった盆が机上に用意されると、間もなく教祖は足早に面会室に現われて着座し挨拶を受ける。
初めて面会する信者は、先達から教祖のことを聞かされるにつけ、「どんなに威厳のある方か」
と畏れをいだきながらやって来るが、一見、横町の隠居のような、小柄で白髪の老人の姿に接して、みな意外一の感に打たれたのであった。
しかし、第一印象は平凡に思われた教祖が、じつは天衣無縫であり、その中に至高の境地を内在させていることを覚<さと>るようになる。そして、一様に教祖に対して心からの尊敬の念でいっぱいになるのが常であった。
教祖が着座すると、まず献上品と称する持参の品々の報告、つぎに代表者の布教活動の報告がある。それから質疑応答に移るのである。
その内容は大変幅が広い。古来からの神秘や謎のような霊的事象、宗教、信仰の問題などを含めて人事百般にわたった。ところが、どんな問題にもまったく躊躇逡巡することなく、教祖はまさに快刀乱麻を断つように、しかも懇切丁寧に答えたのである。
*芸術、医学、農業、政治、経済、教育、科学等、はては恋愛問題も含む
その答えはきわめて平易簡潔、学問のない者にもよくわかり、いささかの曖昧さも残さなかった。ときには厳しく叱ることもある。また一転して冗談を交え、ユーモアをもって爆笑の渦を起こすこともある。そのように、融通無碍の教示は、満座のた魂を魅了しないではおかなかった。少々的を外した質問であっても、教祖は持ち前の機転で当意即妙のやりとりに仕立て、質間を生かすようにするのである。また答えるに値しないような、いわゆる愚問であったにしても、その間いをきっかけに話題を広げ、教えの一端として説き聞かせることもあった。それは文字通り「愚問賢答」と呼ぶにふさわしい。
これは教祖と親交のあった徳川夢声の伝える話である。ある年、箱根に教祖をたずねたおり、たまたま面会の様子を見る機会があった。いろいろ質問が出る中に、
「こんど支部の看板を出そうと思いますが、どのくらいの大きさがよろしいですか。」
と尋ねた者があった。するとすかさず教祖は、
「ちょうどいいくらいの大きさのがいい。」
と笑って答えた。家の大きさや、間口の広さ、高さなどを報告せずに看板の寸法だけ尋ねても判断のつくはずがない。その意味で、「ちょうどいいのがいい。」という答えは、まさに絶妙であると言わなければならない。この間答を聞いていた夢声は、当意即妙、味わい深いユーモアさえ漂うその答えに、限りない魅力を感じたという。
しかし、教祖がいつも気長に受け答えをしたというわけではない。法律上の細かな手続きを質問する者には、
「それは市役所で聞きなさい。」
と答えたし、霊的な知識に深入りをしようとする者には、
「それを知ったからといって人類救済とどういう関係があるんですか。」
と諭すのであった。いついかなる場合でも、教祖は人を救うということを中心としていたので、神業の根本を忘れた質問は、これを厳しく正したのであった。
面会の席に連なった人々は、質疑がたとえほかの人の問題であっても、それに対する教祖の答えがちょうど自分自身に向けられているように思われた。また面会の時の教祖の言葉の内容が、すぐにはわからないことがあっても、布教の場に立ち返って、いろいろな問題にぶつかっているうちに、おのずとその言葉の意味が理解されてきて、その真意がしっかと肚に収まり、問題を乗り越えられることもよくあった。
教祖は同じような質問でも、相手によって異なる答え方をすることが多かった。ある者には教えだけではなくて、もっと小説を読めと言うかと思うと、ある者には教えだけを一心に読め、とも言った。また同じ失敗をしても、ある場合には厳しく叱責したし、ある場合にはほとんど注意さえしなかった。これらはみな、教祖が相手のもつ千差万別の事情に応じ、いかにすれば相手を育て生かしきれるかを洞察したうえで、説き分けた絶妙な対機説法(相手の機根に応じて教えること)なのである。
仮に同じことをやり、同じ質問をする人々があったとしても、その行為者、質問者の背景となる事情は一人一人異なるものである。同じ問いに対して同じ答え方をし、同じ事柄を同じように叱っていたのでは人を生かし育てることはできない。教祖はたとえ質問を出した本人がその場にいない場合でも、その人物の背景や因縁を霊感で直覚し、適切な指導をしたのである。
面会は単に知識を伝える場だけではなかった。そこに居合わせる者の人間性や品性が問われたり、常識人としてのたしなみがいかにあるべきかを教えられる場でもあった。
進駐軍による占領時代のことである。教祖は日本の再建に尽力する連合軍最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥に敬意を表して、薩摩焼きの茶碗を贈呈したことがあった。そして贈呈に先立って、面会のおり、信者にその茶碗を披露したのである。ところが中に茶碗を不用意に持ち上げ、顔の前で眺め始めた者がいた。それを見た教祖は、
「茶碗はそんな風に見るものじゃない。」
と、膝の上に肘をつき、低く構えて鑑賞する見方を教えたのである。
またある面会の席上、教祖の話が始まると、あちらこちらで妙な唸り声や咳や、しゃっくりが起こった。それは、教祖の側近くに身を置くだけで、全身に光を受け浄化が始まるためである。よくあることなのだが、この時ばかりはいささか賑やかに過ぎるきらいがあった。その時である。中の一人が激しい咳をした。それがしばらく続いたので教祖は、
「あなたハンカチを持っていますか。」
と尋ね、
「口にハンカチを当てれば書が小さくなりますよ。」
と静かな調子で言って、ふたたび話を続けた。
書面による「お伺い事項」になってからは、しばらく教祖みずから質問を読み上げ、それに答えるという時期があったが、間もなく側近の者に読ませて教祖が答えるという形式に代わったのである。「お伺い事項」というのは、病気などの苦悩に直面している者が、その状況を書き記し、一日も早く救われることを願って提出する場合が多かった。とくに浄化のひどい場合には、
「この人はいつ入信しましたか? 私の本(教祖の論文)を読んでいますか? 浄霊を受けていますか? ご神体は祀ってますか? 神様の御用をしてますか?」
などと入信後の経緯を尋ね、本人が信仰の本筋を歩んでいることを感得した時には、
「じゃあ、大丈夫ですよ、きっとよくなりますよ。」
と、力強い言霊で勇気を与えるのである。また信仰上の問題点があれば、それを指摘し、具体的に乗り越える道を指示して温かく励ますのであった。
質疑応答のあとには、みずから口述した論文を側近の者に読ませ、その解説をした。続いて政局の動向や世相、身辺の出来事なども話題にのせ、最後に「寸鉄」の朗読があって終了になるのであった。
「寸鉄」というのは、世情を風刺した滑稽文学の一種である。生粋の江戸っ子である教祖は、才気煥発、縦横無尽に小気味よい筆を揮ったのである。
「あまくない人をあまくみる甘さ。意味が判るか。」
「偉くない奴ほど偉く見せたがり、金がない奴ほど金持ぶりたがり、治らぬ医学が治るように思はせる。弱い犬ほど吠えたがり、小人物ほどホラを吹き、意気地のない奴ほど威張りたがる。ア丶くたびれた。」
やがて、先述したように、昭和二七年(一九五二年)春の立春祭から、「寸鉄」のあと、参列した信者全員に教祖から直々の浄霊が取り次がれることになった。
「近頃は浄化が非常に強くなって来た。」
といって、毎回、一〇分近く教祖は手をかざしたのである。