時代は前後するが、教祖はまた若い.ころから音曲(日本の伝統芸能の中におけるさまぎまな音楽)を好み、義太夫、常磐津、清元、新内、筑前琵琶、長唄などを楽しんだ。
義太夫の名人として教祖があげているのは、明治、大正にわたって活躍した女義太夫の豊竹呂昇である。教祖は元来、義太夫はあまり好きではなかったが、呂昇だけはどうしても聞かずにはいられなくて、有楽座にたびたび出かけて行った。そして呂昇の芸によって義太夫に興味をもつようになり、自分でも一年ほど習ったのであった。
そのほかの音曲で、記憶に残る名人として教祖があげているのは、常磐津の林中、清元の五世・延寿太夫、新内の柳家三亀松、筑前琵琶の高野旭嵐、長唄の六世・芳村伊十郎などである。
長唄では、先述した吉住小三郎を賞賛している。この吉住とは、とくに個人的に昵懇の付き合いがあった。縁の始まりは昭和ニ一年(一九四六年)のことである。熱海に移って三年後、聖地建設の候補地を探しがてら市内のあちこちを歩いていたところ、たまたま教祖は吉住の家の前を通りかかり、吉住が熱海にいることを知った。そのことを聞いたよ志は、以前から長唄を習っていたので、吉住について稽古することを望んだ。すると間に立って紹介する人があり、願いがかなって稽古に通うようになったのである。その後、吉住が教祖の家に招かれて、家族同様の交際が始まった。食事を共にしたり、桜の季節には一緒に花見に出かけるという風で、気のおけない付き合いをしたのである。
吉住が教祖と知り合って間もないころのことである。まだ食糧事情が悪く、米を手に入れるのがむずかしい時代であった。教祖はある日、
「吉住さん、ご飯はどのくらい食べますか。」
と尋ねた。
「家内と二人きりだから、あまり沢山は食べません。」
と答えると、
「じゃあ、米だけは送ってあげますよ。」
と言って、それ以来、食糧事情が好転した後も米を送り続けたのである。そして教祖の昇天後は、よ志がこれを引き継いだのであった。
吉住はこのように、教祖一家と隔てのない交際をし、きわめて親しい付き合いをして、教祖に摸する機会が多かったが、そのような折節に、ふと教祖の神秘な一面に触れることがあった。
それは教祖の身体から満ちあふれる霊光の不思議さである。
吉住はたまたま教祖と外出をして、車の後部へ三人掛けをすることがあった。吉住が中央に坐って、その横へ教祖が乗り、反対側に、よ志の叔母のれいが乗るという具合である。そのさい、れいの側にはとくに変わったことはないが、教祖の方からは、火鉢にでもあたるような熱気が来るのである。吉住も普通の人ではないと頭では理解していたものの、いざそのような神秘に接してみて、いよいよその思いを深くしたのであった。
教祖はまた、吉住の、一心に芸術に打ち込む情熱を尊び、
「吉住さんは国宝級の人だから。」
と、ことのほか心をかけたのであった。
吉住は戦前すでに東京音楽学校の教授を勤めていたが、「国宝級」という教祖の言葉通
り、教祖が昇天した後の昭和三一年(一九五六年)、重要無形文化財・保持者(人間国宝)に認定され、翌三二年(一九五七年)には文化勲章を受けるという栄誉に輝いている。
芸能に携わる人々は、今日でこそ一般に高い評価を受けているが、かつては「芸人」と呼ばれ、その社会的地位はけっして高いものではなかった。しかし、すでに述べたように、教祖は大衆を楽しませながら、豊かな情操をはぐくんでくれるその働きを、非常に尊いものと考えていたのである。
そこには、江戸時代以来、庶民の芸能文化の一大中心地であった浅草の地に生まれ育った、下町っ子としての心情をうかがい知ることができる。同時にまた、教祖が常々いだき続け、生涯かけてその実現をめざした地上天国が、深く人心を踊躍歓喜(心の底から踊り上がるほどの喜び)せしめずにはおかない文化の栄える世界であるという確信ともつながっているものがあるのである。
教祖は、幼い時代から親しんだ邦楽を愛する一方で、西洋音楽も好んで聞いた。とくにバッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウスなどは、ラジオでもよく聞くなどして楽しんでいる。出入りの美術商の一人は、一宗の教祖が、しかも七〇歳を越えてなお、西洋の音楽を盛んに聞いていることに、新鮮な印象を受けたと述べている。