救世会館

 教祖は熱海の瑞雲郷を「清々台」、「景観台」、「石雲台」の三段に区分して建設を進めたが、その中心をなすのが晴々台上に建てられた「救世会館」である。この建物は写真に見るようにル・コルビュジェ<*>(一八八七年~一九六五年)の建築様式を加味した鉄筋コンクリート造りの建造物である。教祖は当時もっとも近代的な様式とされ、建築界を風摩しつつあったコルビュジェ様式を宗教建築として整え、さらに一層モダンなものにと設計したのである。
会館内部を白壁とし、外観は白色と濃い灰色で直線を生かした簡素なデザインの建造物である。敷地面積は一二〇〇坪(三九六〇平方メートル)で一階六九七坪五合(約二三〇〇平方メートル)、二階三四三坪(約一一三〇平方メートル)、収容人員は約三〇〇〇名であり、参拝行事を執り行なうほかに、映画、演劇、舞踊などを行なうことのできる会場として多方面に使用されるように設計されていたが、とくに演奏会用のオーケストラ・ボックスも設けられていた。
   *スイスに生まれ、フランスで活躍した建築家。現代西洋建築に新生面を開いた

 この救世会館の建設にあたっては、まず二メートル四方の模型を造り、十分な検討が重ねられた。また、教祖は毎日時間を決め、瑞雲郷へ出かけては、工事の指図を与えた。とくに柱の太さを決めるにあたっては、支えるべき重さから、専門家が出した柱の太さと、教祖が直感によって述べた数字とが寸分の違いもなかったのでみる。基礎工事が終わり、件の柱が造られ始めた時のことである。八本ほどの造りかけの柱を視察した教祖は、

 「誠がこもっていないから造り直すように。」
と命じた。固まった鉄筋コンクリートの柱を人力で打ち砕いていくのは大変な労力と手間のかかる作業であったが、柱は建物を支える大切なものである。霊感によってその工事に構造上の欠陥を感じとり、教祖はあえてその手間も承知のうえで造り直しを命じたのであった。

 このように、教祖自身が現場で指揮をとり、神秘な事象が起こる中で建設の進められた救世会館ではあったが、昭和三〇年(一九五五年)、教祖が昇天する前にはついに完成をみなかった。なお、建物の名は、昭和三二年(一九五七年)三月、教団の名が世界救世教と改められるとともに、救世会館となったのである。

 当時、可能な限り最上の建物をという信念のもとに建設が行なわれたが、地盤が弱いこともあり、参拝者の危険が懸念されたことから、昭和四七年(一九七二年)に新しく建て直された。新しい会館は教祖が建てた救世会館のイメージを受け継いで建てられたものである。