兇党<きょうとう>界とは悪魔の世界であって、一名邪神界ともいう。この団体は常に正神と対抗し続けている。正神の方に八百万の神あるごとく、邪神の方にも八百万ある。そうして正神は善を行わんとするに対し、邪神は悪を行わんとし常に相対峙している。丁度人間が心中において良心と邪念が対抗し闘争しているようなものである。元来人間には先天的神から与えられたる霊魂–これを本守護神といい、後天的憑依せる霊魂–これを副守護神という。そうして本守護神には常に正神界から霊線を通じて良心が伝流され、又副守護神には邪神界から霊線によって、邪念を伝流して来る。そもそも万有の生成化育は相反する二元素、すなわち陰陽、明暗、火水等の摩擦と融和によるのである。この理によって人間といえども善悪両面の活動によって力が発生し、それによって人間天賦の使命を遂行し得らるるのである。ゆえにこの場合悪といえどもいわば必要悪である。何となれば本守護神は良心的本質によって善を想い善を行うに反し、副守護神は悪に属するもの、すなわち体欲の本質を発揮するからである。体欲とは所有欲、優越欲、独占欲、名誉欲、贅沢欲等々の物欲である。彼のニーチェはこれを本能欲といった。したがってこの本能欲がある限界を越ゆる時罪悪を構成する。ゆえにこの制禦<せいぎょ>こそ人間社会の秩序と安寧を保ち得る条件である。この理によって本能欲が人間の活動を発生させ、良心がそれを制限する事によって人間の幸福と栄えがある、社会の進歩があるのである。
しかるに今日まで夜の世界であった為、邪神の力が強かったという事は、正神の制禦力が弱かったという意味になる。それが今日のごとき不幸に満ちた人類社会の現出とはなったのである。しかるに昼の世界になるに従って逆になる結果、善の力が主となり悪が従となる。悪が従となるという事は悪ではない事になる。何となれば、善の支配力の下に置かれるからである。