昭和一五年(一九四〇年)一二月、教祖五八回目の誕生祝いの時から、当局の執拗な干渉、弾圧を避けるため、宝山荘で会合することをやめ、その代わりとして「会食会」の名のもとに、ホテルや料亭で教祖の指導を仰ぐようになったこと、また、当番の会がつくられ、会食会の運営を担当するようになったことは、すでに記した通りである。
しかし、これも間もなく、開催の場所を東京に限るのではなく、教祖夫妻を各地の旅行に招待するという形に変わっていった。神社仏閣や名所旧蹟、あるいは景勝地をたずね、それぞれの文化、芸術を楽しみつつ、教祖に接し、その指導を受けたいという願いに発したものである。
これは昭和一六年(一九四一年)五月に始まり、同一八年(一九四三年)四月まで断続的に続けられたが、その行先と期日はつぎの通りである。
一六年五月 綾部、丹波・元伊勢(京都府)、奈良、京都、近江(滋賀県)
六月二二日
鹿島<かし暮>神宮(茨城県)、香取神宮(千葉県)
六月三〇日~七月二日
伊勢神宮(三重県)、長良川(岐阜県)
八月二二日
日光・東照宮、二荒山神杜、湯西川温泉(栃木県)
一〇月二二、三日
熱海、箱根
一一月二五日
御岳神社(東京都)
一七年五月 大宮・氷川神社、吉見百穴(埼玉県)
七月一四、五日
熱海、伊豆海岸、修善寺(静岡県)、箱根
一一月五日~七日
善光寺、戸隠(長野県)、草津温泉(群馬県)
一二月二三、四日
保田、外房州(千葉県)
一八年四月 三浦半島
これらの旅行に同行したのはよ志のほか、執事の井上茂登吉と、それぞれの当番会の代表者で、大体いつも一〇人前後、行先によっては日帰りの時もあり、二、三泊のこともあった。
中でも神業上重大な意義のある旅行として、後に教祖が記しているのは、昭和一六年(一九四一年)五月の丹波・元伊勢、同六月の鹿島、香取両神宮と、七月の伊勢神宮、そして翌一七年(一九四二年)一一月の善光寺である。
昭和一六年(一九四一年)の八月に訪れた栃木県の揚西川は、教祖にとって貴重な体験となった。ここは、かつて大正一二年(一九二三年)に訪れようとして奥日光から山を越える途中、道に迷い、とうとう行けずじまいに終わった所で、改めて足を延ばし訪れたのであった。
ここは平家の落人によって開かれた山奥の寒村で、当時は戸数六〇戸、九〇〇人ほどの人々がひっそり、静かに暮していたのである。ところが不思議なことに、この村には病人がいない。唯一の例外は、酒の飲み過ぎで中風になった老人が一人いるきりであった。興味をもった教祖が尋ねてみると、ここは無医村で、徹底した菜食ということであった。というのは、川はあるが魚は食べず、また鶏も飼っていないから卵も食べない、というわけである。教祖は、
「以上の事実によってみても無医薬と菜食が如何に健康に好いかといふ事実で、全く私の説を裏書してをり非常に面白いと思った。」
と書いている。
かつて、青年時代に、不治の宣告を受けた結核を、徹底した菜食療法で治癒した経験から、教祖は菜食が人間の健康にとってきわめて有意義なものであることを体得していた。また実業家の時代に歯の激痛を克服した経験は、薬毒の発見につながっていくのである。そして薬毒に対する確信は、その後、神の啓示を受けたことによって、より深化、徹底され、不動の信念となるのである。
昭和一六年(一九四一年)の揚西川行は、こうした事柄に対する生きた実例として、教祖の心中に強い印象を残したのであった。
このように昭和一六年(一九四一年)から一八年(一九四三年)にかけて事繁く行なわれた 各地への旅行は、教祖と行を共にした先達たちにとって自然の風光に親しみながら、一方で身近に教祖の教えを受けることのできた、いわば魂の向上を図るまたとない研修の場であった。同時にそれは教祖にとっては、神業を遂行するうえで重要な事実に身をもって接することのできた、貴重な〝発見の旅″でもあった。中でも昭和一六年(一九四一年)、太平洋戦争の勃発する数か月前の丹波・元伊勢、伊勢、鹿島、香取の参詣に重大な意義が秘められていたことはすでに触れた。
教祖は元伊勢参拝にさいして、
待ちわびし天の岩戸も明けぬらむ心地ぞすなり時の力に
という歌を詠んでいる。この歌からもうかがわれるように、すでに日本の行末について種々感知するところがあった教祖は、先々を見通して、これらの日本を代表する由緒ある古社や寺院に参拝することを通じて、日本の将来や、ひいては、夜昼転換の推移とともに展開しつつある現実の世界の歩みについて、日本の宗教的伝統の根源とみなされた神仏・諸霊との深い霊的交流により、その密意を確認するという秘めやかな意義が込められていたと察せられるのである。
なお、教祖はこの時期の昭和一七年(一九四二年)一二月二三日に、ふたたび鋸山に登ろうと保田を訪れたが、太平洋戦争たけなわのおりから、要塞地帯であるために山は立入禁止となっていた。そこでやむなく登山をあきらめ、そこからほど近い志保沢武<しほざわたけし>という信者の別荘に一泊したのであった。
志保沢は父親がハワイで新聞社を経営していた関係から、小学校入学までハワイで暮していた。しかし教育は日本でという親の願いから、単身日本に渡り、大学までの課程を修得し、卒業後はいくつかの会社を経営した。神縁のきっかけは、戦争の始まる前に教祖の浄霊を受け、持病の腹膜炎が全快したのが始まりである。
志保沢は戦後、会社経営を退<しりぞ>いて、昭和二三年(一九四八年)一〇月から二五年(一九五〇年)一月に亡くなるまで「日本観音教団」の管長(後の総長職)を勤めた人物である。