教祖は一生の間に、さまぎまな事業を手がけたが、その一つに鉱山の経営があった。その着手は「大日本観音会」立教の年、昭和一〇年(一九三五年)の夏のことである。当時、浄霊によって病気を救われた人々の中に中根由紀子という女性があり、その夫の康喜が鉱山を経営していた。中根は越後山脈の山懐に抱かれた山形県西置賜郡北小国村字舟渡(現在の小国町舟渡)にある大吉鉱山を経営していたが、そのころ資金繰りに行き詰まり、教祖を知って融資の依頼をしてきたのであった。その後、中根は事業のことでしばしば自観荘へ来て教祖に接するうち、その人格、霊徳に打たれ、熱心な信者になった。
一方中根の話に興味をもった教祖は、さっそく岡庭通明を調査に派遣し、購入を決意したのである。そして翌一一年(一九三六年)、第一次・玉川事件から三か月を経た九月には、岡庭真次郎を伴って現地の視察におもむいている。
大吉鉱山はタングステンの鉱石を産し、一時は盛んに採掘を行なっていた。
教祖が交通の不便な山中にみずから出向くほどの情熱を傾けて鉱山の経営を手がけた理由はなんであったのだろうか。鉱山の運営には、それ相当の資金が必要とされるし、当時教祖は経済的にとても余裕のある状態ではなかった。したがってそこには大きな理由がなければならない。後になって教祖は、おりに触れ、その意図を信者に話している。それは一言でいえば、人類を救い、地上に理想世界を建設する、そのための活動資金を獲得するということであった。
教祖は当時、家族をかかえ、借金の返済に追われながら、しかも弾圧のため収入も不安定な状態であった。そのうえ、他面では、布教師を養成し、地方へ派遣もしなければならない。機関紙を発行し、著書も出版しなければならない。奉仕をしつつ療養をしていた多数の者の生活をみなければならない。さらに将来には美術館を建設するという、遠大な夢もある。これらの事業を推し進めていくためには大変な資金を必要とするが、そのすべてを信者の献金に依存するとなれば、その負担はけっして軽いものではない。
しかも神業はいたずらに延引を許されるものではない。──この隘路を打開するため、教相の取り上げた方策の一つが鉱山の経営であったと考えられるのである。
資金獲得という目的のほかに、鉱山経営にはまた大変に都合のよい側面があった。それは終戦まで全面的な活動を禁止された教祖にとって、表向きの職業を鉱山経営とすることにより、官憲の徹底した監視を少しでもそらすことができたからである。岡田式指圧療法の名のもとに、救世の活動を続けていた時代から、宝山荘の門柱に、「岡田鉱業所」という看板を掲げたのも、そうした配慮に基づくものであった。
戦争前に手がけた鉱山には、大吉のほかに岐阜県益郡の下呂鉱山がある。下呂は昔、傷付いた一羽の白鳥が飛来して村人に温泉のあることを教えたという伝説のある山国の揚の町である。
教祖は、下呂鉱山を入手し、現場での作業が始まった一五年(一九四〇年)一一月二四日、清水と井上を伴って視察におもむいた。現地に一泊したきりの短い旅であったが、この視察について、一つの奇蹟談が伝えられている。
教祖は鉱山に登るにあたって、ふもとの鉱山事務所にあらかじめ用意してあった杖を使ったが、下山後、杖は事務所に置いたまま帰京したのである。ところが、その事務所に、リューマチのため歩行の不自由な老人が住んでいた。そして土間に立て掛けてあったその杖がちょうど格好であったので、それにすがって歩いていた。ところが気が付いてみると、いつになく非常に軽く歩けたのである。不思議に思いながら、以来歩くたびにその杖を使っていた。すると長い間苦しんできたリューマチがいつとはなしに治ってしまったので、思いもかけない奇蹟に驚喜したのであった。
また、前述の大吉鉱山にはつぎのようなエピソードが伝えられている。それは鉱山に近い舟渡の湊屋という旅館の離れを、中根康善が事務所として使っていた時のことである。中根は仕事の合間に、しばしばその旅館の主人、塚原辰巳と親しく話をしていたが、そんな時の中根の話の中に、
「正直にすること、約束を守ること。」
という教祖の言葉をよく口にした。このことを聞いた塚原は、心を打たれ、その後、この言葉を座右の銘として守り続けた。そして後年、この地を訪れた信者に対して、そのころをなつかしみながら、
「私も、それを生活指針として生きてきましたが、お蔭で商売も繁盛させていただきまして、思い出しても本当に有難いことだと感謝しています。」
と語っているのである。
戦後になって経営した鉱山は二つある。第一は、田沢湖にほど近い秋田県仙北郡西木村上檜木内戸沢の森吉鉱山で、昭和二二、三年(一九四七、八年)ごろから採鉱が開始されている。ここは四〇〇年の歴史をもつ古い鉱山で、金、銀、鋼、鉛、硫化銅などを産出し、教祖が経営していた時の最盛時には二〇人ほどの坑夫が働いていた。
もう一つは、群馬県利根郡水上町の水上鉱山である。昭和二六年(一九五一年)八月に購入し、間もなく採鉱が開始された。この鉱山には七、八人の職員と、四〇人ほどの奉仕の青年が働き、一か月八トンほどの亜鉛と鉛の鉱石を採掘した。
戦後の鉱山事業にも、いくつかの逸話が伝えられている。弟子の一人が教祖の命令で、宮城県の細倉鉱山に調査に行った時のことである。向こうに着いてみると、たずねた相手が留守で、一週間ほどは帰らないとのことであった。弟子は、それほどは待てないと考え、一度家へ帰って出直すことにした。すると教祖から電報で呼び出しがあり、
「あの件はどうした。」
と問われたのである。そこで、
「はい、先日会社へ行きましたら、課長が留守で一週間ぐらい帰らないと言うので、あんな所に一週間も泊まって待っているのは馬鹿馬鹿しいと思い、一度帰ってきました。」
と答えた。すると教祖はにわかに厳しい調子で、
「何、もう一度言ってみろ。」
「はい、課長さんが留守で……。」
「それはわかっている。そのあとをだ。」
と追及した。そして、
「あんたは、私の用をするのが馬鹿馬鹿しいのか。」
と、なおも鋭い調子で言い、
「幾日待っていようが、私の用を果たさないうちは、あんたはそこに用があるはずだ。私の言い付けを軽く聞いているから、馬鹿馬鹿しいなんて言うのだ。」
と叱った。すべてを神業として進める教祖の仕事を行なうにあたって「馬鹿馬鹿しいので」という言葉がすぐに出るような軽薄さと誠心のなさを厳しく戒めたのである。
このことがあってから、いくらもたたないころ、井上茂登吉が教祖の用事で人に会いに行き、やはり先方が不在で戻ってきたことがあった。ところが教祖は、この時には何も言わなかったのである。
この話からも、教祖が人を指導するにさいして、形に現われた行為でなく、その奥にある心の在り方を問い、その人その人に応じて導いたことが知られるのである。
鉱山事業は経綸上深い神意があって、教祖の昇天前まで続けられたが、費された経費も多く、 採算的には必ずしも成功したとはいえなかった。このように多年にわたる雌伏の時代から、神業推進の資金を獲得するために手がけられた鉱山も、後々の教線の飛躍的な発展の結果、全国から感謝の浄財が捧げられるようになり、やがてその使命を終えたのである。