執筆された論文は、教祖みずから直接に説いたものである。しかし教祖自身は神の代行者としてこれを説くという、厳然たる姿勢でのぞんでいた。したがって、教えは神の言葉として特別な取り扱いをし、教祖自身それを「神書」 と呼んでいたのである。
たとえば、執筆用の机には、推敲に必要な物以外はけっして置かない。煙草盆やマッチなど、よく使う身近なものは、一段低い脇台の上に置いた。そして書き上がった原稿は、大切に専用の文箱に入れて保管したのである。
また原稿は完成をするまでに、何度も朱筆を入れて推敲(口絵カラー写真参照)するのを常とした。加筆して真っ赤になったものを係が清書し、元の原稿は粗末にならないようにと、必ず焼却することになっていた。その様子はちょうど、信者が教祖の書物を取り扱うのと同様であった。
教祖が、神人合一の境地において教えを説いたことを示す逸話はいろいろ伝えられているが、論文の口述ぶりもその一つである。
口述が始まるのは、たいてい夜もふけて、ほかの仕事がすべて終わり、奉仕者も寝静まった一二時過ぎからである。ひっそりと人の動きの絶えた中で、担当者を相手に、こんこんと清水がわき出るような、よどみない口述が深更<しんこう>の二時まで続けられる。時間を固く厳守する教祖は、たとえ口述中の論文が中途であっても、二時になると、
「あとは明日にしよう。」
と、即座に中止し、その続きは翌日の深夜一二時過ぎになってふたたび始められた。それも担当者が、前夜に口述した最後の一、二行を読むと、
「ああ、わかった。」
と言って、さっそく口述が始まるのであった。気を利<き>かせて幾分前の方から読んだりすると、
「そんな前から読まなくても、最後の一行か二行読めばわかる。時間がもったいないではないか。」
という注意を受けた。それはちょうど途中で止めてあるテープレコーダーのスイッチを入れると、すぐその続きが始まるのと同様の感があった。教祖の頭の中には、すでに論文ができあがっていて、それをただ言葉に出しているとしか考えられない、じつに鮮やかな口述ぶりであった。
教祖は多い時には、一時間に四〇〇字詰め原稿用紙一二、三枚の口述をしたので、論文はどんどんたまる一方であった。ある時、
「原稿が余ってしようがないから、『栄光』紙の枠を広げて、できるだけ多く活字の組めるようにしなさい。」
とのことで、できるだけ教祖の論文を載せるようにしたのであった。
教祖が原稿を書いたのは、教団の機関紙に限らない。社会の注目を集める存在であったから、宗教関係の新聞や外部の雑誌などから原稿の依頼があった。そういう場合、枚数やテーマまで細かく注文してくることもあったが、
「ああ、そうか、じやあ書こう。」
と、いとも気軽に承諾し、いかにも楽しそうに口述を始めるのであった。
教祖は、昔から宗教の教えには、とかく難解なものが多く、それが分派の生まれる原因ともなり、大衆を十分に救いえないもとともなってきたと説いている。そこでみずから口述するにあたって、もっとも心を砕いたのが、老若男女を問わず、どのような教養、身分、年齢の人が読んでも理解できるような、わかりやすいものにするということであった。 したがって、どの論文も口述したものを清書したままにとどめるというのではなかった。どのように表現すれば一番わかりやすくなるかと、何度も自分で推敲して訂正や加筆を繰り返したのである。多い時には二〇回以上も清書しては朱筆を入れ、また書き直すというように推敲を重ねた。そしてさらにあがった原稿を担当の山本慶一に読ませ、
「こういう表現で信者は意味がわかるだろうか。おまえはどうだ。」
と言って、批判を求めることもあった。