熱海・瑞雲郷の建設は昭和二〇年(一九四五年)に、当時の地名で、伊豆山字大久保、現在の救世会館の土地約五〇〇〇坪(約一万六五〇〇平方メートル)の入手から始まった。
翌二一年(一九四六年)には、現在の水晶殿のある所と、梅園から新人寮付近に及ぶ土地を合わせて約三〇〇〇坪(約一万平方メートル)も手にはいって、今日の瑞雲郷が、おおむね形を整えてきたのである。この地は、伊豆半島をはじめ、大島、初島の浮かぶ相模灘を越えて、三浦、房総両半島に至る天与の風光を一望にする景勝の地である。
しかも交通は至便であり、気候は温暖、温泉は豊富と、あらゆる条件を具備している。このことについて、
「全く天地創造の時神が準備された聖地であり、神の大芸術品でなくて何であろう。」
と、教祖は述べている。
しかし、当時、このあたりはまだ生い茂る樹木の間をわずかに細い野道が通うばかりの未開の丘陵地で、登るのも一苦労であった。
そのころ、教祖は、東山荘で信者と面会をしたおり
「今に、この向こうの山に、何千人も収容できる建物を造る。」
と将来の構想を語ったことがある。しかし聞く方では、何か夢物語のように受け取られるばかりであった。というのも、当時教線が発展したといっても、面会には数十名が集まる程度であり、話にでた向こうの山はといえば、直線の距離にして数百メートル、駅を越えた北西の方角に見えたが、鬱蒼とした樹木におおわれていたからである。
地上天国吾つくらんと海山の眺めゆたけき熱海とさだめぬ
しかし、そのような状況の中で、熱海の造営工事は昭和二一年(一九四六年)、現在の新人寮の場所に管理小屋を建てるための敷地造りから始まった。そしてさらに、救世<メシヤ>会館、水晶殿、石雲台の用地の造成と、着々と工事が進められていったのである。箱根と異なり、土地も広く起伏が大きいために、山を削って谷を埋めるという大規模な工事が必要であった。まだ機械力の乏しい当時、ダイナマイトで爆破した土砂をシャベルで掘り出し、モッコで運んでトロッコで運搬するというように、作業の大半は奉仕隊の人力によって進められたのである。