昭和二五年(一九五〇年)、教祖はこれまで進めてきた浄霊と出版物の刊行による宣教に加えて、直接、生の言葉で語りかける耳からの布教にも大いに力を入れることとした。このために本部に宣伝部が組織され、やがて第一回の講演会が開かれたのは昭和二六年(一九五一年)二月のことであった。
会場にあてられた東京神田の共立講堂には、四千数百人の聴衆が集まった。会場にはいりきれない人々が場外にあふれるという盛況ぶりであった。教祖の言葉が代読されると、信者は全員起立して耳を傾け、信仰の熱気に満ち満ちた講演会となった。
管長・大草直好の挨拶に続いて、まず、ハワイヘラルド紙・東京支局長・マキノ・ジョセフが浄霊によって救われた体験を発表し、ハワイで布教に尽力する決意を述べた。次いで衆議院 議貞・早稲田柳右衛門、また、元衆議院議員・鈴木正吾と次々に壇上に立って、信者としての立場からみずからの信仰体験を述べ、世界救世教が人々の幸せと、ひいては世界の平和のため、いかに重大な使命を担うものであるかを訴えた。こうして講演会は成功裡に幕を閉じたのである。
これを皮切りに、三月に名古屋・中京女子高等学校講堂、五月には大阪・中の島公会堂、浦和の埼玉全館、次いで東京の日比谷公会堂、九月には大館、花巻、仙台など東北地方の各都市、一〇月には熊本、博多、下関、一一月には長野、宇都宮と、昭和二八年(一九五三年)初めまで全国各地を舞台に講演会が開催された。教祖はこれらの講演会に大きな意欲を示し、自分が参加しない場合には必ず原稿を託して、代読できるように計らったのである。
昭和二六年(一九五一年)五月二二日の、東京日比谷公会堂における講演会は、救世教の歴史の上でも記念すべきものである。信者で舞踊家の伊藤道郎、前年の秋季大祭で奉納演芸に出演して以来、教祖と縁を結んだ徳川夢声、そして鈴木正吾らが、こもごも立って話をしたあと、教祖みずから壇上に立ち、信者、及び一般の会衆、その数合わせて三千数百人の聴衆に向かって、三〇分にわたる講演をした。それは一般大衆に救世の願いを込めて、教えの核心を説いた初めての講演であった。
その時の心境を教祖は、
「私の時間となり演壇に登るや、自然に言葉が湧いて来るので、如何ともし難く、そのまま原稿抜きでしゃべってしまったのである。」
と書いている。かねて用意した原稿にとらわれず、会場の雰囲気から、心のおもむくまま、あふれ出る真情を吐露したのである。
教祖はまず、唯物的科学を金科玉条(守るべき大原則)として、その一辺倒に陥った現代の世界は、けっして人類が待ち望んだ文明世界ではないことを指摘し、理想世界、すなわち、真の文明世界は、人類のあらゆる悩みが解決され、生命の安全が保障されて、一人一人が精神的にも物質的にも幸福を享受することのできる世界であるべきであると強調した。そのためには、人々は霊の実在を知らねばならない。精神文化を発達させなければならない。そのうえで、精神文化と物質文化、両者が協調し、進歩してこそ、初めて人頬の真の幸福はもたらされる。そのように霊の実在に目を向けた真の精神文化を今こそ興すべきだと力強く説いた。さらに、今、現在のこの時こそ、まぎれもなく神の経綸によって理想世界が建設される時であると指摘するとともに、みずからがその理想世界の建設を推進する実行者である。さらに付け加えれば、神の力と教えを身に体して、人類を至高の幸福へと導いてやまない、新文明を創造する担当者であると、確信をもって訴えたのである。
この日教祖は、濃紺のダブルに臙脂のネクタイを締めて壇上に立ったが、それが血色の良い顔色と白髪に良く映え、人類救済の熱意に燃えるその容姿は、青年のように若々しく聴衆の目に映った。時間にしてわずか三〇分、淡々と話す中にも、言外にあふれる宗教的信念と情熱は、人々に多大の感銘を与えずにはおかなかったのである。