左の二つの例は私の弟子である、某海軍大佐夫人の手記で参考になると思うからここに掲載する事とした。
久し振りに九州から上京した姉(二十数年間女学校教師奉職中)と火鉢を囲んで、尽きぬ話はいつか霊の実在や、現代科学では割切れぬ神秘力等の事に触れてゆきました。
「霊といえばとても不思議な事があるんですよ」姉はあたかもそこに物の怪でも居る様に肩をすくめて四辺を見廻しました。早春の夜をひっそりと雨が降っています。
「もう十年の余にもなるかしら、未だあの士族屋敷の古い家に居た頃のある真夜中、二階に寝んでいられたお祖母さん(姉の夫の母)がいきなりゲラゲラ笑い出したんです。初めの中は夢でも見て居られるのだろうと気にも留めずに居たのですが、あまりその笑いが続くので、主人と二人お祖母さんの部屋へ行って見ました。正体もなくゲラゲラ笑うお祖母さんに、これはてっきり発狂されたんじゃないかと、ともかく、私達は濡手拭で頭を冷したり、首を冷したり、その合間には「お祖母さんお祖母さん」と大声で呼んでみたりして正気づける事に懸命に努めました。どの位時間が経ったでしょうか、夢中でタオルを絞っているとふいに東側の硝子窓がスルスルと独りでに開くではありませんか」
「開いたって、どの位開いたんです」
私も全身にサーッと総毛立つものを感じながら聞いていました。
「覚えているでしょう。あの三尺の窓なのよ、あれが全部開いてしまったのです。私達は冷水を浴びた様にゾッとして身体は硬直して動けなくなってしまいました。冷たい夜気がさっと流れて、開け放された窓の外に木立が怪物の様に突立って見えるのが、一層私達の恐怖に拍車をかけて、その窓を閉めに行く事すら出来ません。と、急に〔お〕祖母さんの笑いが止んで私達を認めると、
「一体どうしたの」と云うのです。
「どうしたもこうしたもお祖母さんこそどうしたというのです」–主人がやっと口を開く事が出来ました。
「夢だったろうか。大きな猫とも犬ともつかぬ獣が蒲団の間から入って来て、私に咬みつこうとしたんだよ」
「でもお祖母さんは笑っていらしたじゃありませんか」
「へー、私が笑ったかねえ、それは知らない、只私は、咬付かせまいとしてもがいていたんだよ」この夜ほど、朝の光の待遠しかった事はありません。あの不思議な出来事は人にも話せず胸に畳んで一週間ほど過ぎました。するとある朝親しいお隣りのS氏夫人(S氏もまた姉と同じ女学校教諭)が起抜けにドテラのまま裏木戸から入って来ました。
「妾<わたくし>ね、夜中に主人から額を噛みつかれたのよ」いきなり挨拶もせずそういうのです。
「朝からお惚気<のろけ>も好い加減になさい」–笑って相手にしない私に、S夫人は
「冗談じゃないのよ、見て御覧なさい。私の額に歯型があるでしょう」そう言われてみれば歴然と深い歯の痕があるのです。私も初めて本気になって、
「一体どうしたというのです」と何かしら先夜のお祖母さんの事件と関係がある様な予感がして訊いてみました。
「今朝二時頃、いきなり主人が私の額に噛みついたので、キャッと悲鳴を上げると、初めて正気に返った主人はびっくりして飛び退きました。これは大変な事をしたと、気の毒なほどしょげているのです」聞いてみると、
「良い気持で眠っていると、大きな犬でもないし猫でもない動物が入ってきて噛み付こうとするので、必死になってその奴に掴みかかったつもりだった」
そういう訳で、一週間の間に起った両家の怪事件は、謎のまま思い出す度に今でも身震いが出ます。」初めて聞く姉の家の怪談に、あの草葺の湿っぽい、陰気な士族屋敷の家並みを想い浮べて、ゾッと脊筋を冷たいものが走りました。
右は全く狸霊の仕業であって、狸霊の面目躍如<めんもくやくじょ>たるものがある。もちろん、劫<こう>を経た古狸に違いない。笑うという事は狸霊の特色であるが、窓を開けるに至っては、その霊力驚くべきものがある。
次は–
「もう十二、三年も前の事です。主人の中学時代の親友K氏の夫人は、御実家の墓を何かの事情で他所へ移す事になり、御主人のK氏と妹さん御夫妻とで墓所へ行かれました。
妹さんの御主人S氏は当時なかなか羽振りの好い株屋さんでした。墓所の発掘に取掛りますと、飛んでもない所から髑髏<しゃれこうべ どくろ>が一つ出て来ました。するとS氏は、いきなりその髑髏をポンと蹴ったというのです。皆あまりの所作に喫驚して「そんな事をすると祟りが来る」と申しましたが、S氏は元々唯物的な人でしたから、
「馬鹿な–もし祟るものなら僕一人が皆背負ってやるから、祟ってみるがよい」–と一笑に付して帰りました。
ところが帰宅すると、そのまま脳溢血で倒れてしまいました。それからは泣きっ面に蜂と申しましょうか。商売はうまく行かなくなるし、番頭は金を持って逃げる。さしも豪勢を誇ったS氏の店も破産に等しく、遂に麻布のある裏町に引込んで、細々と暮す事になりました。
五年間を中風で仆れたままの生活は、全く生ける屍という言葉そのものでありました。腰の辺の床ずれ等二目と見られない。おまけに医療費はかかるし財産はなし、それでいて死ぬにも死ねず病人は疳<かん>が立って焦れるし、S氏夫人は毎日メソメソする–とある日K夫人が来宅されての打明話でした。そして「もしやあの髑髏が、本当に祟ったのではないでしょうか」–と言われるのです。
その頃、私は心霊学に興味を持って、霊媒実験等をして喜んでいる時でしたから、早速霊媒に紹介状を書いて「除霊」をお願して差上げました。紹介状はもちろんその髑髏の一件等には触れず、病人の事に関しては、年齢と名前だけ書いたのみです。K夫人は半信半疑というよりは、むしろ嘲笑している方が多い妹のS夫人を同行して心霊協会へ行かれました。
除霊の為に、霊媒が入神状態に入りましたが、仲々霊が浮かず、しばらくしてから「どうしても墓石が邪魔していて、何も分らない」というのだそうです。そういわれると胸に来るものがある訳です。両夫人は無気味な思いで顔を見合せました。相当長い入神状態が続いてやっと霊が出ました。私が予期していた通り「蹴られた髑髏」と名乗って出たそうです。「心底呪っているから、あの男は未だまだ苦しむし、それかといって死ねもしない、哀れなものさ」–とせせら笑うのです。
「どんなお詫びでもして供養するから、その呪いを解いてほしい」両夫人も審神者も一生懸命に三十分ばかり交渉してようよう霊を納得させたそうです。
「一週間、種々の野菜を供えてお経をあげる事」という霊の要求で帰宅すると早速仏壇(註仏壇は階下)に数々の野菜を供えました。所が供え終ると二階の病人が、それまで碌々<ろくろく>口も利けなかったのに、イキナリ「葱を退けろ葱を退けろ」と喘ぐのだそうです。看護婦が喫驚して、夫人の所へ来てその由を告げました。何の事か何度聞いても同じ事を云われるので困り抜いて、ふと仏壇の葱に気付きともかく葱を取り去ってみました。するとそのまま二階の病人は満足気に、大人しく眠り始初めました。
次の日は又「紙を替えろ紙を替えろ」と、もどかしく叫ぶので考えてみると、前日の紙を取替えずに裏返しで、第二日の野菜を供えたのがいけなかったという訳です。
第三日は、剥豆<むきまめ>を供えたのだそうですが、「豆をもっとくれ」という訳で、山盛りにしたら納まりました。
さすが冷静な、御主人に似て唯物的なS夫人も気味悪さに耐えられなくなって姉さんのK家の書生さんを宿りに寄越して欲しいと頼みに来られたそうです。
その以後の事は聞き漏しましたが、一週間の供養が済むと間もなく、安らかにS氏は息を引とられました。
右の体験によって流石のS氏夫人も、 その後は夢の醒めたごとく、 霊を信ずるようになったそうです。」