幸福の、秘訣などと言うと、何か特別の魔法でも使うように思うかも知れないが、決してそうではない、至極当り前の話である。ただその当り前の事を世人はあまりに気がつかないのである。
今社会全般を見渡した時、真の幸福者は一体幾人あるであろうか。恐らく一人もないと言ってよかろう。事ほどさように苦悩の世界である。実にいかなる人といえども、失敗、失業、病苦、貧困、不和、懐疑、悲観等、実に首枷<くびかせ>、足枷<あしかせ>を箝<は>められ、牢獄に呻吟<しんぎん>しているというのが有りのままの姿であろう。
まず、誰しも平静になって考える時、こういう疑問が起るであろう。「全体造物主である神様は、人間を造っておきながら、これほど苦しませるという事はどういう訳であろうか、何故もっと不幸よりも幸福の多い世界にしてくれないのであろうか」と思わない訳にはゆくまい。と考えると、何かそこに割切れないものがあるに違いない。従ってその割切れない点を誰しも知りたいであろうから、それを説明してみよう。
人間の発生した原始時代から今日只今まで、厳然として存在を続けているものとしては、まず善と悪とであろう。これは真理である。そうしてこの善悪という相反する性質のものは、常に摩擦し争闘しつつ、今以て勝負がつかないでいる。ところがよく考えると、この善悪の摩擦によって今日のごとき文化の発展を見たのであるという事もまた真理である。この事について私はよく質<たず>ねられた事がある。それは「神様は愛であり慈悲であるとしたら、最後の審判などと言って、人間に悪い行いをさせ罪を作らせておきながら、それを罰するというのはどうも訳が分らない。最初から悪人を作らなければ、罰も審判の必要もないではないか」と言うのであるが、これはもっとも千万な話で、実を言うと私もそう思っている。しかしながら私が人間を造ったとすればその説明は容易だが、私といえども造られた存在である以上徹底した説明は出来よう筈がない、強<し>いて説明をすれば神の御心はこうであろうと想像する以外、説明のしようはないであろう。とすれば、そんな穿鑿<せんさく>は有閑人に任せて、我々としては現実を主とし、生ある問幸福者たり得ればそれでいいのである。故に何よりも右の根原を発見し実行することである。ではその方法はと言えば、常に我々の言う他人を幸福にする事で、ただこの一事だけである。ところがそれには最もいい方法がある。その方法を私は長い間実行していて、素晴しい好結果を挙げているので、それを教えたい為にこの文を書いたのである。
右をまず簡単に言えば、出来るだけ善事を行うのである、始終間さえあれば何か善い事をしようと心掛けるのである。例えば人を喜ばせよう、世の中の為になら妻は夫を気持よく働かせるようにし、未は妻を親切にし安心させ喜ばせるようにする。親は子を愛するのは当然だが、叡智<えいち>を働かせて子供の将来を思い、封建的でなく、子供は親に快く心服し、愉快に勉強させるようにする。その他日常すべての場合相手に希望をもたせるようにし、上役に対しても下役に対しても愛と親切とを旨とし出来る限り誠を尽くすのである。政治家は自分の事を棚上げにして国民の幸福を第一とし、すべて模範を示すようにする。もちろん、一般人も一生懸命善事を行う事に努め、智慧を揮い、努力するのである。このように、善事を多くした人ほど幸福者になる事は請合である。
以上のようにみんなが気を揃えて善事を行ったとしたら、国家も社会もどうなるであろうかを想像してみるがいい。まず世界一の理想国家となり、世界中から尊敬を受けるのはもちろんである。その結果あらゆる忌わしい問題は解消し、我等が唱える病貧争絶無の地上天国は出現し、人民の幸福は計り知れないものがあろう事は、大地を打つ槌<つち>は外れてもこれは決して外れっこはない。
ところがだ、現在としての現実はどうであろうか。およそ右と反対で、悪事を一生懸命しようとする人間が滔々<とうとう>たる有様で、嘘をつき人を誤魔化し、己のみうまい事をしようとして、日もこれ足らずの有様である。実に悪人の社会と言っても過言ではない。これでは幸福などは千里の先へ行きっきりで帰る筈はない。その上困った事には、こういう地獄世界を当然な社会状態と決めてしまって、改革などは夢にも思わないのである。しかも我々がこういう地獄世界を天国化すべく活動するのを妨害する奴さえある。これこそ自分から好んで不幸者となり、最低地獄へ落ちるようなものである。こういう人間を我等からみる時、最も憐むべき愚人以外の何物でもないと共に、我等はこれらの人間の救われん事を常に神に祈願しているのである。
あまり長くなるからここで筆を擱<お>くが、以上の意味をよく玩味<がんみ>すれば、幸福者たる事は、敢<あ>えて難事ではない事を知るであろう。