近く発行する予定の『救世教奇蹟集』の序文であるが、これは先日この欄に載せたが、どうも面白くない点があるので、今回書き直したのであって、それが下記の序文である。
救世教奇蹟集
序文
この著は科学に対する原子爆弾であり、人類に対する啓蒙書であり、救世の福音でもある。今その理論を説くと共に、その裏付として我救世教における数多くの奇蹟中から、百例を選んで載せてあり、これを読む人々は余りの超現実的なものばかりで、直ちに信ずる事は出来ないであろう。何となればこれ程素晴しい奇蹟は、古往今来未だ嘗てないからである。そうして昔から宗教に奇蹟は付物とされているのは、人の知るところであるが、その眼で見ても本教の奇蹟は、到底信ずる事は出来ないと共に、理屈のつけようもない事である。しかもその一々が体験者自身の手記である以上、一点の疑う余地はないとした
ら、日本は愚か外国にも例のない事であって、私はこの空前の事実を日本の誇りとして、全世界に一日も早く発表する義務があると思うのである。
そうしてこれこそ二十世紀後半における今日まで、全人類夢想だもしなかったところの、一大驚異ともいうべく、これが私という一個の人間を通じて行われるとしたら、実に神秘以上の神秘といってよかろう。従ってそこに深い意味がなければならないはずであるのはもちろんで、その根本こそ、宇宙の主宰者たる主神の深甚なる経綸によるのであって、その理由としては、現在の文明に一大欠陥があるからで、その欠陥こそ文化の進歩に対する大なる障礙<障害>となっているのである。その証拠にはこれ程文化が進歩発達したに拘わらず、人間の最大欲求である幸福はそれに伴わないばかりか、寧ろ不幸の方が益々深刻になりつつある現実である。ではその欠陥とは何であるかというと、これこそ科学至上主義の誤りであって、現代人は科学によれば何事も解決出来るとする科学過信というよりも、科学迷信の深淵<しんえん>ことごとくに陥ってしまっている事である。ここに於て神はこの迷信を徹底的に打破し、真の文明世界を樹立すべく、人間を介して直接行動に取掛かられたので、これも全く時の然らしむるところである。そうしてこの迷信発生の原因こそは、見えるものを信じ、見えざるものは信ずべからずとする唯物一辺倒の為である。従ってこの考え方を是正するには、どうしても今日まで無とされていた霊なるものの実体を認識させ、一切は霊が主で物質が従であるという真理を会得させる事である。
ここで重ねて言いたい事は、もし唯物科学が真理であるとしたら、この進歩に従って人類の苦悩は漸次減ってゆき、それだけ幸福も増さねばならない筈ではないか、ところが現実はどうであろう。なるほど絢爛眼を奪う文化都市、交通の至便、進歩的生活、一切の機械化等々、唯物的には確かに幸福は増したに違いないが、肝腎な精神的幸福は零でしかない。というにみて文明の欠陥がよく露われている。
とはいうもののこれも深遠なる主神の経綸であって、今日まではそれでよかったのである。というのは神の御目的である理想世界を造るには、その準備としてまず物質文化を、あるい程度完成しなければならないからで、今日まで治乱興亡限りなき人間苦闘の歴史もその為であったのである。という訳で唯物科学時代はここに終りを告げると共に、精神文化勃興の時代が来たのである。そうして唯物唯心の両科学が、歩調を揃えて進み、真の文明時代が実現するので換言すれば宗教と科学の一致でもある。それにはまず霊の実在を認識させる事が先決問題であるから、神はこの方法として奇蹟を顕わすのである。その役目を担うべく選ばれたのが私であり、もちろん奇蹟の力も与えられたのである。それについては昔から多くの宗教の中、特に顕著なものとして、今なお有名なかのキリストの奇蹟であろう。盲の眼を開かせ足萎<あしなえ>を立たしめ、悪人から鬼を追い出し、集った数十人の信徒に、水を葡萄酒に化して飲ませた等々であるが、私はこの葡萄酒の件だけは、後世誰かが作ったものと思うが、その他はもちろんあったに違いない。ところが本著にあるほとんどの奇蹟は、キリストと同じ位か、それ以上のものさえあるので、全く驚異の一語に尽きるであろう。しかも全部私の弟子が顕わしたのであるから、正直にいって歴史を覆えすほどの大事件であろう。
そうしてキリストの曰われた彼の有名な「世の終り」とは、この唯物文化時代の終りの事であり、次で「天国は近づけり」との予言は、今や生まれんとする飛躍的高度の文化時代であり、真の文明世界であるのは言うまでもない。故にこの世界の大転換期に際して、神は空前の奇蹟を顕わし、世界的文化革命を遂行され給うのであるから、この事が信じられる人にして来るべき新時代における幸福者たり得るのである。ところで私はこれ以上かきたいが、それでは純宗教書になるからこの辺で止めておくが、読者はこの意味を充分銘記して、精読されん事である。それと共に本教を以て従来の宗教観を捨て、宗教以上の超宗教として見られん事である。
(自観)